ジョルジュ・アウベルト・メンドンサ・パウリーノ
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名前 | ||||||
本名 |
ジョルジュ・アウベルト・メンドンサ・パウリーノ Jorge Alberto Mendonça Paulino | |||||
ラテン文字 | Jorge Mendonça | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
アンゴラ ポルトガル スペイン | |||||
生年月日 | 1938年9月19日(86歳) | |||||
出身地 | ルアンダ | |||||
身長 | 184cm | |||||
体重 | 81kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW (CF) | |||||
ユース | ||||||
1955-1956 | スポルティングCP | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1956-1958 | ブラガ | 24 | (15) | |||
1958 | デポルティーボ・ラ・コルーニャ | 5 | (1) | |||
1958-1967 | アトレティコ・マドリード | 167 | (59) | |||
1967-1969 | バルセロナ | 33 | (9) | |||
1969-1970 | マヨルカ | 5 | (1) | |||
通算 | 234 | (85) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ジョルジュ・アウベルト・メンドンサ・パウリーノ(Jorge Alberto Mendonça Paulino、1938年9月19日 - )は、アンゴラ・ルアンダ出身の元サッカー選手。ポジションはFW。
ラ・リーガにおけるアンゴラ人の歴代最多出場、得点記録を保持している。
クラブ経歴
[編集]ポルトガル領時代のルアンダに生まれ、1958年にSCブラガにてキャリアをスタートさせた。1958年5月にデポルティーボ・ラ・コルーニャへと移籍すると、シーズン終了後にアトレティコ・マドリードへと引き抜かれた。同年9月15日、レアル・オビエドとのリーグ戦で早速デビューすると、チームの2点目となるゴールを挙げて2-0での勝利に貢献した[1]。3日後のUEFAチャンピオンズカップ予選ドラムコンドラFCでは、再び得点を決めた[2][3]。
9シーズン在籍したアトレティコ・マドリードでは、リーグ戦25試合以上に出場するシーズンは無かったが、それでもそのうち2シーズンは二桁得点を記録するなどの活躍を見せた。1961-62シーズンにはUEFAカップウィナーズカップの決勝に進出し、ACFフィオレンティーナと対戦したが、第1戦を引き分けで終えたために行われた再試合では3-0での勝利に繋がるチームの3点目を決めてタイトル獲得を果たした[4]。1967年にアトレティコを退団すると、2シーズンをFCバルセロナで、現役ラストシーズンをRCDマヨルカでプレーして選手生活を終えた[5]。
タイトル
[編集]クラブ
[編集]- アトレティコ・マドリード
- ラ・リーガ : 1回 (1965-66)
- コパ・デル・ヘネラリシモ : 3回 (1959-60, 1960-61, 1964-65)
- UEFAカップウィナーズカップ : 1回 (1961-62)
- FCバルセロナ
- コパ・デル・ヘネラリシモ : 1回 (1967-68)
脚注
[編集]- ^ At. Madrid, 2 – Oviedo, 0; ムンド・デポルティーボ, 1958年9月15日 (スペイン語)
- ^ At. Madrid, 8 – Drumcondra, 0; ムンド・デポルティーボ, 1958年9月18日 (スペイン語)
- ^ Técnica y magia angoleña; ムンド・デポルティーボ, 2004年12月4日 (スペイン語)
- ^ El Atlético cumple medio siglo como campeón de Europa; ABC, 2012年9月5日 (スペイン語)
- ^ Futre e mais 15: os outros portugueses que passaram pelo Atl. Madrid antes de João Félix, entre flops e figuras de proa; Observador, 2019年6月26日 (ポルトガル語)
外部リンク
[編集]- ジョルジュ・メンドンサ - BDFutbolによる個人成績