コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ジョフロワ1世 (アンジュー伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョフロワ1世グリズゴネル
Geoffroy Ier Grisegonelle
アンジュー伯
在位 960年 - 987年

出生 938/40年
死去 987年7月21日
配偶者 アデール・ド・ヴェルマンドワ
  アデライード・ド・シャロン
子女 エルマンガルド=ジェルベルジュ
フルク3世
ジョフロワ
モーリス
家名 アンジェルジェ家
父親 アンジュー伯フルク2世
母親 ジェルベルジュ
テンプレートを表示

ジョフロワ1世(Geoffroy Ier d'Anjou, 938/40年 - 987年7月21日)は、アンジュー伯(在位:960年 - 987年)。グリズゴネル(Grisegonelle、灰衣伯)といわれる[1]

生涯

[編集]

ジョフロワ1世はアンジュー伯フルク2世とジェルベルジュの間の長男として生まれ[2]、960年ごろに20歳ほどで父からアンジュー伯位を継承した[3]。ジョフロワはモー伯ロベール・ド・ヴェルマンドワとアデライード・ド・ヴェルジーの娘アデールと結婚した[2]。アデールは西フランク王ロベール1世の子孫にあたり、父方はカール大帝の男系子孫であった[3]。この結婚により、アンジュー家は最高位のフランス貴族の仲間入りをすることができた[3]

ジョフロワはまず、領地を守る上で戦略上重要な地域に、自身の権力基盤としてアンジェの城を作ることから始めた[4]。アンジェにあるサン=トーバンとサン=セルジュの修道院の土地が、彼の最も忠実な支持者たちに利益をもたらした[4]。このことについて、ジョフロワはフルクおよびモーリスの二人の息子に次のように忠告している:「多くの友人を持つ一族で衰退した一族はない。だから、友人を持つ忠実な人々を大切にするようにしなさい。」[5]。 アンジュー家の権力拡大の主な方法の一つは血縁関係の構築であったが、ジョフロワは様々な方法を用いてその支配力を発揮した[6]。ジョフロワの父フルク2世は、ナント伯(ブルターニュ公アラン2世)の未亡人との結婚によりナントの支配権を手に入れたが、ジョフロワはナント伯(ブルターニュ公)グエレスに自らを領主と認めさせることにより、引き続きナントを支配した[6]メーヌに関しては、メーヌ伯と、ル・マンの子爵や司教との間の対立をジョフロワは利用した[7]。971年頃、司教シジュフロワとの同盟のため、ル・マン教区の保護を約束した[8]。973年、ジョフロワは娘エルマンガルド=ジェルベルジュブルターニュ公コナン1世と結婚させたが[9]、コナンはジョフロワと次第に敵対するようになり、982年には初めてコンクレイユで戦いが起こったが、ジョフロワが勝利した[10]

ジョフロワは、妹アデライード=ブランシュがアキテーヌ地方の有力な貴族であるジェヴォーダンおよびフォレ伯エティエンヌと結婚し、エティエンヌの死後はアデライードがそれらの領地を支配していた関係から、アキテーヌ地方にも影響力を持っていた[11]。甥のポンスとベルトランは伯位を継承し、姪のアルモディスはラ=マルシュおよびペリゴール伯アダルベール1世と結婚した。975年、ジョフロワは弟ギーをル=ピュイ伯および司教に任命した[11]。982年、ジョフロワは未亡人であった妹アデライード=ブランシュを、当時15歳であった後の西フランク王ルイ5世と結婚させ、ルイとブランシュはアキテーヌ王および王妃として戴冠した[10]。ジョフロワはこの結婚によりアキテーヌの支配権を得ようしたが、ルイと30歳近く年上のアデライードとの結婚は後に解消された[10]。ジョフロワは最初の妻であるアデールの死後、アデライード・ド・シャロンと再婚し、10年近くシャロン伯領を支配した[6]。また、息子フルク3世とヴァンドームの女子相続人であったエリザベートとの結婚を通して、アンジュー家はヴァンドームの支配権も得た[12]。息子フルクを共同統治者としてまもなく、マルソン要塞を包囲している間の987年7月21日に、ジョフロワは死去した[13]

子女

[編集]

最初に、モー伯ロベール・ド・ヴェルマンドワとトロワ伯領女子相続人アデライード(ウェラ)・ド・シャロンの娘アデールと結婚し、以下の子女をもうけた。

二度目に、出自に諸説あるが、ブルゴーニュ公ジルベール・ド・シャロンの娘[17]とされるランベール・ド・シャロン(978年没)の寡婦であったアデライード・ド・シャロンと結婚し[18]、1男をもうけた。

  • モーリス(980年 - 1038年以前)[19] - シャロン伯[6]

参考文献

[編集]
  1. ^ Norgate, Kate, England Under The Angevin Kings. England: Macmillan (1887).
  2. ^ a b Detlev Schwennicke, Europäische Stammtafeln: Stammtafeln zur Geschichte der Europäischen Staaten, Neue Folge, Band III Teilband 1 (Verlag von J. A. Stargardt, Marburg, Germany, 1984), Tafel 116
  3. ^ a b c d Bernard S. Bachrach, Fulk Nerra the Neo-Roman Consul, 987-1040 (University of California Press, 1993), p. 9
  4. ^ a b Medieval Transformations: Texts, Power, and Gifts in Context, Ed. E. Cohen & M.B. de Jong (Brill, Leiden & Boston, 2001), p. 193
  5. ^ Bernard S. Bachrach, Fulk Nerra the Neo-Roman Consul, 987-1040 (University of California Press, 1993), p. 82 & n. 95
  6. ^ a b c d Bernard S. Bachrach, 'The Idea of the Angevin Empire', Albion: A Quarterly Journal Concerned with British Studies, Vol. 10, No. 4 (Winter,1978), p. 295
  7. ^ Steven Fanning, 'A Bishop and His World Before the Gregorian Reform: Hubert of Angers, 1006-1047', Transactions of the American Philosophical Society, Vol. 78, Part 1 (1978), p. 30
  8. ^ Steven Fanning, 'A Bishop and His World Before the Gregorian Reform: Hubert of Angers, 1006-1047', Transactions of the American Philosophical Society, Vol. 78, Part 1 (1978), p. 29
  9. ^ a b Detlev Schwennicke, Europäische Stammtafeln: Stammtafeln zur Geschichte der Europäischen Staaten, Neue Folge, Band II (Verlag von J. A. Stargardt, Marburg, Germany, 1984), Tafel 75
  10. ^ a b c Bernard S. Bachrach, Fulk Nerra the Neo-Roman Consul, 987-1040 (University of California Press, 1993), p. 15
  11. ^ a b Bernard S. Bachrach, 'The Idea of the Angevin Empire', Albion: A Quarterly Journal Concerned with British Studies, Vol. 10, No. 4 (Winter,1978), p. 296
  12. ^ Bernard S. Bachrach, 'The Idea of the Angevin Empire', Albion: A Quarterly Journal Concerned with British Studies, Vol. 10, No. 4 (Winter,1978), p. 297
  13. ^ Bernard S. Bachrach, Fulk Nerra the Neo-Roman Consul, 987-1040 (University of California Press, 1993), p. 16
  14. ^ Detlev Schwennicke, Europäische Stammtafeln: Stammtafeln zur Geschichte der Europäischen Staaten, Neue Folge, Band III Teilband 4 (Verlag von J. A. Stargardt, Marburg, Germany. 1989), Tafel 817
  15. ^ Bernard S. Bachrach, Fulk Nerra the Neo-Roman Consul, 987-1040 (University of California Press, 1993), p. 11
  16. ^ Bernard S. Bachrach, Fulk Nerra the Neo-Roman Consul, 987-1040 (University of California Press, 1993), pp. 11-12
  17. ^ この説が正しければ初婚の妻アデール・ド・モーは後妻アデライード・ド・シャロンの姪に当たる。
  18. ^ Constance Brittain Bouchard, Those of My Blood: Constructing Noble Families in Medieval Francia (University of Pennsylvania Press, Philadelphia, 2001), p. 25
  19. ^ Bernard S. Bachrach, Fulk Nerra the Neo-Roman Consul, 987-1040 (University of California Press, 1993), p. 14

外部リンク

[編集]
先代
フルク2世
アンジュー伯
960年 - 987年
次代
フルク3世