ジョアッキーノ・コンティ
ジョアッキーノ・コンティ(Gioacchino Conti、1714年2月28日 - 1761年10月25日)は、イタリアのカストラート歌手。ジッツィエッロ(Gizziello)またはエジッツィエッロ(Egizziello)とも呼ばれた。
生涯
[編集]コンティはアルピーノの出身で、おそらくナポリの作曲家ニコラ・コンティの子かという[1]。8歳のときからナポリでドメニコ・ジッツィ (Domenico Gizzi) に学んだことからジッツィエッロのニックネームで呼ばれるようになった[1]。
コンティはローマでデビューした。1731年にレオナルド・ヴィンチの『ディドーネ』を歌ったときに、同じカストラートのカッファレッリに称賛されたという逸話がある。1732年から翌年にかけてナポリ、1735年にはヴェネツィアで歌った[1]。ナポリではジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージの1732年のオペラ『サルスティア』の初演リハーサル中にカストラートのニコリーニが急死し、急遽代役として起用された[2][3]。
1736年にイギリスでプリンス・オブ・ウェールズのフレデリックとオーガスタの結婚が発表されると、ヘンデルは結婚記念に新作オペラを上演することに決め、カレスティーニが去った後のカストラートとしてコンティを招いた[4]。それまでのセネジーノやカレスティーニがアルト・カストラートであったのに対し、コンティは幅広い音域を持つソプラノ・カストラートだった[5][6]。コンティにあてて書いた『アタランタ』の第1幕のアリアの中でヘンデルはハイCを使用している[1]。
コンティはまず5月5日の『アリオダンテ』(再演)によってロンドンにデビューし、高い評価を得た[6]。5月12日には新作オペラ『アタランタ』が初演された[7]。コンティは翌1737年のシーズンのためにヘンデルが書いた3つの新作オペラ『アルミニオ』、『ジュスティーノ』、『ベレニーチェ』でも新たに雇われたアルト・カストラートのアンニバーリ (Domenico Annibali) とともに歌ったが、シーズン途中でヘンデルが脳卒中で倒れてしまい、オペラそのものも不評に終わった。コンティはこのシーズンが終わるとロンドンを去った[8][9]。
コンティはその後1743年にリスボンの宮廷に招かれた。コンティはニコロ・ヨンメッリ、ヨハン・アドルフ・ハッセ、ジョヴァンニ・バッティスタ・ペシェッティ (Giovanni Battista Pescetti) らのオペラを歌った[1]。1747年にはナポリのサン・カルロ劇場で歌った[1]。1749年にはファリネッリに招かれてマドリードで歌った[1]。1752年秋に再びリスボンの宮廷で歌った[1]。
引退後、1761年にローマで没した[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i Lisena (1983).
- ^ Salustia, Opera Manager
- ^ Gabriele Cesaretti, Jesi - Festival Pergolesi Spontini - Teatro Pergolesi: La Salustia e La Serva Padrona, OperaClick
- ^ 三澤 (2007), pp. 103–104.
- ^ ホグウッド (1991), pp. 231–232.
- ^ a b 三澤 (2007), p. 104.
- ^ 三澤 (2007), p. 105.
- ^ ホグウッド (1991), p. 242.
- ^ 三澤 (2007), pp. 108–109.
参考文献
[編集]- 三澤寿喜『ヘンデル』音楽之友社〈作曲家 人と作品〉、2007年。ISBN 9784276221710。
- クリストファー・ホグウッド 著、三澤寿喜 訳『ヘンデル』東京書籍、1991年。ISBN 4487760798。
- Lisena, Corrado (1983), “CONTI, Gioacchino”, Dizionario Biografico degli Italiani, 28