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ジューン・ブロンヒル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジューン・ブロンヒル
June Bronhill
アラン・ウォーレンen:Allan Warren)により1973年撮影されたジューン・ブロンヒル
基本情報
出生名 ジューン・メアリー・ゴフ
June Mary Gough
生誕 (1929-06-26) 1929年6月26日
オーストラリアの旗 オーストラリア
ニューサウスウェールズ州ブロークンヒル
死没 2005年1月24日(2005-01-24)(75歳没)
オーストラリアの旗 オーストラリア
ニューサウスウェールズ州シドニー
職業 歌手女優パフォーマー
活動期間 1949年 - 1993年(引退)

ジューン・メアリー・ブロンヒル英語: June Mary Bronhill、1929年6月26日 – 2005年1月24日)は、ジューン・ゴフとしても知られていた[1]オーストラリアコロラトゥーラ・ソプラノオペラ歌手パフォーマー女優である。後述の通り前者は芸名。

オペラの舞台だけでなく、ロンドンウエスト・エンドの劇場やオーストラリアでの、オペレッタ(ライトオペラ、軽歌劇)、ミュージカル劇場でもよく知られていた。

生い立ち

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1929年ニューサウスウェールズ州ブロークンヒルにジューン・メアリー・ゴフ(June Mary Gough)として生まれる。父のジョージ・フランシス・ゴフ(George Francis Gough、1892年 - 1963年)はイギリスのエセックスで生まれ、母のメアリー・イソベル・デイジー・ゴフ(Mary Isobel Daisy Gough、1895年 - 1964年)は旧姓をホール(Hall)といった[2][3]

2度結婚し、一度目は1951年8月10日にニューサウスウェールズ州マリックヴィルでブライアン・マーティン(Brian Martin)と行ったもの[4][5]、二度目は1963年1月17日シドニーでリチャード・ミルバーン・シャンパン・ド・クレスピニー・フィニー(Richard Milburne Champion de Crespigny Finny、1925年 - 2003年)とのものである[6]。両方とも離婚に終わった[7][8][9]が、1963年5月ミルバーンとの間には娘のキャロリン・ジェーン・フィニー(Carolyn Jane Finny)をもうけている[10]

芸名

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エルシー・メリー・フィッシャー(Elsie Mary Fischer、1881年 - 1945年、芸名「エルサ・ストラリア(Elsa Stralia)」)、ヴェラ・オナー・ヘンプシード(Vera Honor Hempseed、1890年 - 没年不明、タスマニアにちなんで芸名「マダム・ヴェラ・タスマ」)、ヘレン・ポーター・ミッチェル(Helen Porter Mitchell、1861年 - 1931年メルボルンにちなんで芸名「ネリー・メルバ」)、ドロシー・マーベル・トーマス(Dorothy Mabel Thomas、1896年 - 1978年、芸名「ドロシー・キャンベラ(Dorothy Canberra)」)、フローレンス・エレン・タウル(Florence Ellen Towl、1870年 - 1952年、バララットにちなんで芸名「マダム・バラーラ(Madame Ballara)」)、フローレンス・メアリー・ウィルソン(Florence Mary Wilson、1892年 - 1968年、芸名「フローレンス・オーストラル(Florence Austral)」)に代表されるオーストラリアの名歌手たちと同様に[11]ジューンは故郷のブロークンヒルに因んで芸名をジューン・ブロンヒルとした。このような芸名をつけたのは、海外へ歌の修行に出るための資金を集めてくれた故郷に感謝するためであった[12][13]。きっかけはヨーロッパのボーカル教師が「ブロークンヒル」を「ブロンヒル」と聞き間違えたことだという。

女優活動

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1949年に「太陽のアリア」(現在のシドニー・アイステズボッド・マクドナルドのオペラ・アリアの大会)で3位[14]1950年に1位を獲得した[15]。ブロンヒルはこの賞金をロンドンへの渡航費に充て、さらに勉強を続けた[14]

ブロンヒルはロンドンで訓練を受け、イングリッシュ・ナショナル・オペラ(当時は一時的にサドラーズ・ウェルズ・オペラ(Sadler's Wells Opera)といった)・カンパニーで、モーツァルトの『フィガロの結婚』に出演し、早くから注目を集める[16][17]。また、『こうもり[18]、『ジプシー男爵』、メノッティの『電話』、フロトーの『マルタ』、エンゲルベルト・フンパーディンクの『ヘンゼルとグレーテル[19]で主役を歌った。オッフェンバックのオペラでは、同オペラ・カンパニーで『地獄のオルフェ』のエウリディケや『パリの生活』のガブリエルなどの役を演じた。

1961年1962年には、オーストラリアの舞台で『サウンド・オブ・ミュージックマリア・フォン・トラップ訳で出演した[20][21]1964年、ロンドンのリリック・シアターでミュージカル『ロバートとエリザベス(Robert and Elizabeth)』にエリザベス役で出演し、ロバート・ブラウニング(Robert Browning)役のキース・ミッシェル(Keith Michell)と共演、1966年にはオーストラリアでも上演された[3]。また、アイヴァー・ノヴェロのミュージカル『グラマラス・ナイト(Glamorous Night)』と『ダンシング・イヤーズ(The Dancing Years)』のイギリス公演にも出演し、後者はロンドンのサヴィル・シアターSaville Theatre)でシーズン中上演された。また、1981年にロンドンのアポロ・ビクトリア・シアター(Apollo Victoria Theatre)で上演されたロジャース&ハマースタインの『サウンド・オブ・ミュージック』のリバイバル版では、マザー・アベス(Mother Abbess)役で出演している[16]

ブロンヒルの代表作は、1958年にサドラーズ・ウェルズ・オペラ・カンパニーのダニロ役トーマス・ラウンドThomas Round)と共演したフランツ・レハールの『メリー・ウィドウ[19]である[22]。ブロンヒルはハンナ・グラワリ(Hanna Glawari)役として200回以上出演し、ファンを獲得した[23]

ブロンヒルは頻繁に母国を訪れ、1975年にはシドニー・オペラ・ハウスで『メリー・ウィドウ』、『地獄のオルフェ』、『こうもり』、『リゴレット』などのオペラに出演した。 1976年にはオーストラリアに永住することを決意し、オーストラリアでは、『後宮からの誘拐』や、1976年7月にヴィクトリア州立オペラで上演されたドニゼッティの『マリア・ストゥアルダMaria Stuarda)』(ロビン・ラヴジョイ(Robin Lovejoy)演出 [24]、ナンス・グラント(Nance Grant)、リチャード・ディバルRichard Divall)指揮)に出演している[25]

後年はオペレッタで、ジョセフィーヌ(『H.M.S. Pinafore』にて)、フィリス(『Iolanthe』)、ルース(『ペンザンスの海賊』)などの役柄を演じた。また、『メイド・オブ・ザ・マウンテンズThe Maid of the Mountains』『コール・ミー・マダム(Call Me Madam』、『ア・リトル・ナイト・ミュージックA Little Night Music』、『ナンセンスNunsense)』、『マイ・フェア・レディ、『ハウ・トゥー・サクシード』に出演し、ミュージカル以外の作品では『毒薬と老嬢』に出演している[19]

ブロンヒルは、イギリスのコメディシリーズ『Are You Being Served?』のオーストラリア版でクロフォード夫人(Mrs Crawford)役で出演したほか、リプトン紅茶のテレビ広告で「ティンホルンのためのフーガ(Fugue for Tinhorns)」を歌っている(ガイズ&ドールズ参照)。

その他の活動

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ブロンヒルは、オーストラリア少女合唱団の設立当初からの後援者である。その名を冠した奨学金「ジューン・ブロンヒル奨励奨学金」があり、毎年、最も合唱力のある聖歌隊員に授与されている。また、アンドリュー・シブリーAndrew Sibley)が描いたブロンヒルの肖像画は、1966年のアーチボルド賞(Archibald Prize)に応募された[26]1976年には音楽業界への貢献により大英帝国勲章を授与された[27]。ブロークンヒルにある通りと講堂もブロンヒルにちなんで名付けられている[27]。1979年にはデビューシングル『主の祈り』をリリースした[28]

ブロンヒルの声は、「非常に透明で、ダイヤモンドのような明るいコロラトゥーラ・ソプラノ」 [29]、及び「完全に非の打ちどころのない発声である」と評された[29]。オペラ・ニュースは、"ブロンヒルのさわやかで明るいかわいらしさと水晶のような発声法が、自身をオペレッタのヒロインにおける理想の表現者たらしめた。"と記している[16]

晩年・引退とその後

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ブロンヒルは2005年1月24日、シドニーのナーシングホームで眠りながら75歳で亡くなった。1980年代乳がんを克服したものの、晩年は聴覚障害[30]と社会的孤立に悩まされ、1993年に引退していた。故郷であるブロークンヒルは、死の2日後、2005年の「オーストラリアの日」の祝典で1分間の黙祷を宣言し、ブロンヒルを讃えた[30]。ロン・ページ(Ron Page)市長は、「彼女は私たちにとって非常に特別な存在です。ブロークンヒルのどの家の人に聞いても、ジューン・ブロンヒルを誇りに思うと答えるだろう[注釈 1]」と述べた[30]。ジョン・アンダーソン首相代理は、「世界は何百万人もの人々を楽しませた人物の死を悼んでいるが、この地のコミュニティが、この女性の一人の人生を祝う非常に誇り高いコミュニティであることを認めているのは、良いことです[注釈 2]。」との見解を表明した[31]

自伝

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ブロンヒルの「率直で面白い」自伝、『ザ・メリーブロンヒル(The Merry Bronhill)』が1987年に出版されている[32][33]EMI は、この本を宣伝するために同じタイトルのコンピレーション・アルバムを制作した。

名誉

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ブロンヒルは1976年の新年の叙勲で大英帝国勲章(OBE)を受賞[34] 、後にオーストラリアバラエティクラブから生涯功労賞(Lifetime Achievement Award)を授与された。

脚注

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注釈

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  1. ^ 原文は「She is very special to us; if you ask every householder in Broken Hill, they'll be able to say, yes, they are proud of June Bronhill.」。
  2. ^ 原文は「The world is mourning the loss of someone who entertained millions, but it's good to see the local community here recognise one of their own in ... a very proud community celebrating the life of one of their daughters.」。

出典

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  1. ^ My Fair Lady”. AusStage. September 8, 2017閲覧。
  2. ^ Marriages: Gough—Hall, The Barrier Miner, (Saturday, 29 May 1915), p.4.
  3. ^ a b Webb. “Bronhill, June”. Grove Music Online. Oxford Music Online. Oxford University Press. 23 January 2017閲覧。
  4. ^ Singer Married, The (Sydney) Sunday Herald, (Sunday, 12 August 1951), p.19.
  5. ^ “JUNE BRONHILL MARRIED”. Barrier Miner (Broken Hill, NSW): pp. 3. (11 August 1951). http://nla.gov.au/nla.news-article48650743 23 January 2017閲覧。 
  6. ^ “June Bronhill”. Australian Women's Weekly (1933–1982): pp. 134. (6 October 1976). http://nla.gov.au/nla.news-article55475277 23 January 2017閲覧。 
  7. ^ Court Order for Merry Widow Star, The Canberra Times, (Thursday, 24 November 1960), p.21.
  8. ^ Soprano Estranged, The Canberra Times, (Wednesday, 4 November 1970), p.3.
  9. ^ Decree, The Canberra Times, (Thursday, 21 October 1971), p.4.
  10. ^ Carolyn Jane gets her Name, The Canberra Times, (Friday, 21 February 1964), p.3.
  11. ^ Warden, Ian, "Has anyone a recording of soprano Dorothy Canberra?", The Canberra Times, (Wednesday, 10 November 1982), p.21.
  12. ^ Biographies — Australian National University
  13. ^ “HIGH PRAISE FOR JUNE BRONHILL”. Barrier Miner (Broken Hill, NSW): pp. 6. (22 October 1954). http://nla.gov.au/nla.news-article49969901 23 January 2017閲覧。 
  14. ^ a b Bebbington, Warren (1997). The Oxford Companion to Australian Music. Melbourne: Oxford University Press. pp. 77. ISBN 978-0195534320 
  15. ^ “Aria Winner To Sing In Mobil Quest”. Glen Innes Examiner (NSW): pp. 3. (25 May 1951). http://nla.gov.au/nla.news-article182510269 23 January 2017閲覧。 
  16. ^ a b c “Obituaries: June Bronhill”. Opera News 69:10: 92. (2005). 
  17. ^ “SOCIAL HAPPENINGS June Bronhill Established in London”. Barrier Miner (Broken Hill, NSW): pp. 5. (6 October 1954). http://nla.gov.au/nla.news-article49968024 23 January 2017閲覧。 
  18. ^ “June Bronhill Stars at Sadler's Wells”. Barrier Miner (Broken Hill, NSW): pp. 4. (8 March 1954). http://nla.gov.au/nla.news-article49419020 23 January 2017閲覧。 
  19. ^ a b c Bronhill, June 1929–2005 (1900), [Bronhill, June (singer) : programs and related material collected by the National Library of Australia], http://trove.nla.gov.au/work/14903430 23 January 2017閲覧。 
  20. ^ “TOP SOPRANO TO RETURN HOME”. The Canberra Times: pp. 28. (24 May 1961). http://nla.gov.au/nla.news-article133980868 23 January 2017閲覧。 
  21. ^ “GAY ITALIAN PERIOD OPERA – A boisterous opera of a type unfamiliar to Australian TV viewers will soon be shown on A.B.C.-TV.”. The Australian Women's Weekly: pp. 4. (31 October 1962). http://nla.gov.au/nla.news-article43202216 23 January 2017閲覧。 
  22. ^ Blyth, Alan (2 January 2005). “Obituary: June Bronhill”. The Guardian. https://www.theguardian.com/news/2005/jan/27/guardianobituaries.artsobituaries 26 June 2016閲覧。 
  23. ^ Blyth, Alan (2 January 2005). “June Bronhill”. The Guardian. ISSN 0261-3077. https://www.theguardian.com/news/2005/jan/27/guardianobituaries.artsobituaries 23 January 2017閲覧。 
  24. ^ Robin Lovejoy 4”. 2022年1月6日閲覧。
  25. ^ CD5954 Donizetti Maria Stuarda 1976 Melbourne”. 2022年1月6日閲覧。
  26. ^ Archibald Prize finalists 1966 :: Art Gallery NSW”. www.artgallery.nsw.gov.au. 23 January 2017閲覧。
  27. ^ a b Larkin. “Bronhill, June”. Encyclopedia of Popular Music. Oxford University Press. 23 January 2017閲覧。
  28. ^ “International Dateline”. Cash Box: 2. (19 January 1980). https://worldradiohistory.com/Archive-All-Music/Cash-Box/80s/1980/CB-1980-01-19.pdf 3 December 2021閲覧。. 
  29. ^ a b June Bronhill dies – Arts” (英語). www.smh.com.au (2 January 2005). 23 January 2017閲覧。
  30. ^ a b c Shmith (2 January 2005). “Broken Hill diva dies” (英語). www.theage.com.au. 23 January 2017閲覧。
  31. ^ “Bronhill ashes to be scattered in Broken Hill” (英語). ABC News. (3 January 2005). http://www.abc.net.au/news/2005-01-31/bronhill-ashes-to-be-scattered-in-broken-hill/628362 23 January 2017閲覧。 
  32. ^ Bronhill, June (1987), The merry Bronhill, Methuen Haynes, ISBN 978-0-454-01343-6 
  33. ^ “Bronhill, frank and funny”. The Canberra Times: pp. 5. (14 November 1987). http://nla.gov.au/nla.news-article122115295 23 January 2017閲覧。 
  34. ^ It's an Honour

 

ソース

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外部リンク

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