ジュリアン・ド・パルム
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ジュリアン・ド・パルム Julien de Parme | |
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自画像 | |
生誕 |
1736年 Cavigliano |
死没 |
1799年 パリ |
ジュリアン・ド・パルム、フランス名:ジャン=アントワーヌ・ジュリアン(Julien de Parme、フランス語名、Jean-Antoine Julien、1736年 - 1799年)はスイス生まれの画家である。主にフランスで活動し、1760年から1773年の間ローマに滞在した。ローマ滞在時代に、パルマ公国から俸給を得たことから、ジュリアン・ド・パルムと作品に署名した[1]。神話に題材を得た作品などを描いた。
略歴
[編集]スイス南部現在のティチーノ州のロカルノ郡のCaviglianoの貧しい家に生まれた[2]。煉瓦工の婚外子で[3]、イタリア名は、Bartolomeo Ottoliniとされる。イタリア、ピエモンテの画家 Guiseppe Mattia Borgnisの弟子をした後[4]、12歳になった1747年にフランスに移った。シャトールーで4年ほど滞在するなどフランスの各都市で修行し、1759年にはパリに住み肖像画家となった。1760年にイタリアに移り、1773年までローマで活動し、パルマ公国から俸給を得て、神話を題材にした作品を描いてた。1771年に短期間ヴェネツィアに旅したが、パルマに滞在したことは無かったとされる。1773年にパリに戻った後、「ジュリアン・ド・パルム」と作品に署名したが、「新古典派」のスタイルの作品は、まだフランスで人気を得ることはできず、貧窮のなかで亡くなった。
忘れられた画家となっていたが、20世紀になってルーブル美術館の学芸員の美術史家ピエール・ローゼンベール(Pierre Rosenberg)によって再発見され、1998年に展覧会が開かれた[5] 。
作品
[編集]-
"Amour" (1762)
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ヘクトールとアンドロマケーの別れ
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ユピテルとテティス (1776)
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ガニュメデスの略奪
脚注
[編集]- ^ Nella Autobiografia egli stesso scrive – "Ho preso il nome de Parme per riconoscenza all'Infante, cui devo tutto".
- ^ Le Magasin pittoresque publié en 1799, mis en ligne par Google Books
- ^ Il écrit dans une lettre « J'ignore d'où le penchant pour ce bel art m'était venu; ce que je sais c'est qu'il se manifestait d'une manière irrésistible. Aller à l'école, dessiner, demander l'aumône, tel était l'emploi de mon temps. » Citation dans l'article de la revue FMR no 63, août 1996, page 20.
- ^ Giuseppe Mattia Borgnis, su itinerarisenzafrontiere.net. URL consultato il 21 giugno 2011 (archiviato dall'url originale il 25 febbraio 2014).
- ^ in FMR n°63, août 1996. Cette revue publie un large éventail de ses œuvres conservées surtout en Italie, dans des musées français de province, ou des collections particulières.
参考文献
[編集]- Pierre Rosenberg, Julien de Parme 1736-1799, ed. Fondazione Cariparma, Pinacoteca Zust, Skira editore, Milano 1999