ジャン1世 (ブルターニュ公)
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ジャン1世 Jean Ier | |
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ブルターニュ公 | |
在位 | 1237年 - 1286年 |
出生 |
1219年3月22日 |
死去 |
1286年10月8日(67歳没) ブルターニュ公国、マルザン、リル城 |
埋葬 | ブルターニュ公国、プリエール修道院 |
配偶者 | ブランシュ・ド・ナヴァール |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ドルー家 |
父親 | ピエール1世 |
母親 | ブルターニュ女公アリックス |
ジャン1世(Jean Ier de Bretagne、1219年3月22日 - 1286年10月8日)は、ブルターニュ公。ジャン1世・ル・ルー(Jean Ier le Roux、赤髭のジャン1世)とも呼ばれた[1]。ブルターニュ摂政ピエール・モークレールと女公アリックスの長男。
生涯
[編集]1221年、母アリックスの死によってブルターニュ公位を継承したが、幼児であったため父ピエールが摂政となった。ピエール・モークレールがブルターニュの男爵たちの反乱を抑えた1232年から親政を開始した。1237年には家臣の一人であったピエール・ド・クランの反乱を鎮圧している。1242年、ルイ聖王にかわってポワトゥーで戦い、ラ・マルシュ伯を従わせた。
1236年、ナバラ王テオバルド1世(シャンパーニュ伯としてはティボー4世)の王女ブランカ(ブランシュ・ド・ナヴァール)と結婚し、ナバラ王国の後継者とみなされた。1240年にはブルターニュからユダヤ人を追放した。1254年に最終的に、年3000リーブルの金と引き換えに、妻の実弟テオバルド2世が王位を継承することに同意し、ナバラ王位をあきらめた。
ジャン1世は多くのブルターニュ貴族や聖職者たちと争った。彼はナント司教と対立関係にあり、ブルターニュの司教から破門されたが、すぐに司教を従わせた。しかし貴族たちは、1257年に順番に武装蜂起して聖職者側についた。ジャン1世は最終的に彼らを抑え込んだ。
ジャン1世はその後、ルイ聖王の第8回十字軍に参加、聖王の命を奪った疫病から逃れて母国に帰還した。
子女
[編集]ナバラ王女ブランカとの間に8子をもうけた。
- ジャン2世(1239年 - 1305年)
- ピエール(1241年 - 1268年) - ディナン、エデ、レオン、エンヌボンの各領主
- アリックス(1243年 - 1288年) - ブロワ伯ジャン1世の妻
- ティボー(1245年 - 1246年)
- ティボー(1247年)
- アリエノール(1248年)
- ニコラ(1249年 - 1251年)
- ロベール(1251年 - 1259年)
関連項目
[編集]- シュシニオ城(仏語)
脚注
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