ジャン1世 (アランソン公)
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ジャン1世 Jean I | |
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アランソン公 | |
在位 | 1414年 - 1415年 |
出生 |
1385年 フランス王国、アランソン公領、エセ城 |
死去 |
1415年10月25日 フランス王国、アジャンクール |
埋葬 | フランス王国、セー、サン・マルタン修道院 |
配偶者 | マリー・ド・ブルターニュ |
子女 |
ピエール ジャン2世 マリー ジャンヌ シャルロット |
家名 | ヴァロワ=アランソン家 |
父親 | アランソン伯ピエール2世 |
母親 | マリー・ド・シャマイヤール |
ジャン1世・ド・ヴァロワ(Jean I de Valois, duc d'Alençon, 1385年 - 1415年10月25日)は、フランスの貴族。アランソン伯およびペルシュ伯(在位:1404年 - 1414年)、アランソン公(在位:1414年 - 1415年)。アジャンクールの戦いにおいて戦死した。賢公(le Sage)と言われる。
生涯
[編集]ジャン1世は、アランソン伯ピエール2世とマリー・ド・シャマイヤールの息子としてエセ城で生まれた[1]。1404年、父よりアランソン伯位とペルシュ伯位を継承し、1414年にアランソン公となった。
アジャンクールの戦いにおいて、ジャン1世はフランス軍の第2師団を指揮した。イングランド軍が第1師団を突破したとき、ジャン1世は反撃した。ジャン1世は、ヨーク公エドワードを殺害し、グロスター公ハンフリーを負傷させ、イングランド王ヘンリー5世の王冠から装飾品を切り取ったといわれている。ジャン1世はヘンリー5世の護衛に取り押さえられ、降伏する前にウェールズ貴族ダフィド・ガムに殺害された[2]。
家族
[編集]1396年にブルターニュ公ジャン4世の娘マリーと結婚し[3]、5人の子女をもうけた。
- ピエール(1407年、アルジャンタン - 1408年)
- ジャン2世(1409年 - 1476年) - アランソン公
- マリー(1410年、アルジャンタン - 1412年、アルジャンタン)
- ジャンヌ(1412年、アルジャンタン - 1420年)
- シャルロット(1413年、アルジャンタン - 1435年、ランバル)
また、以下の庶子をもうけた。
- ピエール・ダランソン(1424年没) - ギャランドン領主、ヴェルヌイユの戦いで戦死
- マルグリット・ダランソン - プレオー領主ジャン・サン=トーバンと結婚
脚注
[編集]- ^ Autrand 1994, p. 859.
- ^ Sumption 2015, p. 459.
- ^ Jones 1988, p. 252.
参考文献
[編集]- Autrand, Francoise (1994) (French). Charles V: Le Sage. Fayard
- Jones, Michael (1988). Creation of Brittany: A Late Medieval State. The Hambledon Press
- Sumption, Jonathan (2015). The Hundred Years War IV: Cursed Kings. Faber & Faber
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