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ジャン=シャルル・タケラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャン=シャルル・タケラ
Jean-Charles Tacchella
Jean-Charles Tacchella
生年月日 (1925-09-23) 1925年9月23日
没年月日 (2024-08-29) 2024年8月29日(98歳没)
出生地 フランスの旗 フランスシェルブール
死没地 フランスの旗 フランスベルサイユ
職業 脚本家・映画監督
ジャンル 映画・テレビ
活動期間 1955年 - 2008年
主な作品
さよならの微笑
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ジャン=シャルル・タケラJean-Charles Tacchella1925年9月23日 - 2024年8月29日)は、フランス脚本家映画監督シェルブール出身。

来歴

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タケラは、マルセイユで研究をしていて、そこでは、彼はとても若く、映画について熱烈に追求していた。フランス解放を期に、パリへと発ち、19歳で批評誌『レクラン・フランセ』に入った。そこで、ジャン・ルノワールジャック・ベッケルジャン・グレミヨンといった、もっとも偉大な映画監督たちがコラボレーションをしていた。またタケラは、そこでアンドレ・バザンと知り合い、7年の間に、ニーノ・フランクロジェ・レーナルトロジェ・テロンアレクサンドル・アストリュックと親交をもった。

エリッヒ・フォン・シュトロハイムアンナ・マニャーニヴィットリオ・デ・シーカの友人となり、アンリ・コルピとともに月刊誌『シネ・ディジェスト』を創刊した。

1948年、タケラは、バザン、ジャック・ドニオル=ヴァルクローズ、アストリュック、クロード・モーリアックルネ・クレマンピエール・カスト前衛シネクラブオブジェクティフ49」を設立、ジャン・コクトーがその会長であった。このシネクラブが、ヌーヴェルヴァーグのゆりかごとなるわけだが、初めての「作家の映画」の祭典である「呪われた映画祭」を組織し、1949年ビアリッツで開催した。同年、タケラはプロデューサーピエール・ブロンベルジェにギャグマンとして雇われる。匿名でシナリオの仕事を始め、とくにレオニード・モギー『明日では遅すぎる』ではデ・シーカとともに仕事をした。同様にまだ黎明期のテレビでも共同作業を行い、市民がそこへ参加していく最初の放送を夢想した。その後タケラはジャーナリズムの世界を離れる。

イヴ・シャンピがタケラに『悪の決算』『忘れえぬ慕情』などの脚本を書くよう依頼した。

1955年から1962年までの間に、クリスチャン=ジャック『国境の村 La Loi, c'est la loi』、ミシェル・ボワロン『気分を出してもう一度 Voulez-vous danser avec moi ?』、アストリュック『La Longue Marche』など20ものシナリオを著した。

ジェラール・ウーリー監督とともに、とくに『大進撃La Grande Vadrouille』の初稿や『悪い女Le crime ne paie pas』などいくつかの脚本を執筆。この時代のタケラ作品で好まれたものはJean Dewever監督の『Les Honneurs de la guerre(戦争の栄光、日本未公開)』である。

1960年代初頭、タケラは脚本家としてのキャリアを中断し、自分自身が監督したい映画の企画の準備をした。いくつかの企画は頓挫し、それは1969年までつづき、監督の名のもとに撮った最初の作品『Les Derniers Hivers(最後の冬、日本未公開)』は30人の役者を使った23分の作品であった。そのころ、タケラは、テレビの連続作家という新しい経験に情熱を注いだ(1965年 - 1966年に、40時間のテレビ作品を執筆、人気を博した『Vive la vie』)。さらには戯曲作家にもなった(3作がムフタール劇場で上演された)。かくして、『Les Derniers Hivers』はタケラの名を監督としてタイトルに刻んだのだ。

さらに2年後、処女長編『Voyage en Grande Tartarie(大いなるタタールの旅、日本未公開)』を撮る。

1975年、『さよならの微笑 Cousin, cousine』が同年度フランスでの最大のヒット作のひとつとなり、目を見張る手法でアメリカの大観衆の心をも同様に掴んだ(本作の記録に匹敵するフランス映画は、25年後の『アメリ Amélie Poulain』を待たなければならないだろう)。

1984年、タケラの『C階段 Escalier C』の住人たちは、本作をある時代、ある世代、あるライフスタイルの証人にし、フランス映画の伝統(ジャン・ルノワール『ランジュ氏の犯罪 le Crime de Monsieur Lange』が起きた建築の住人たち)の中にすべてを登録した。

1981年からシネマテーク・フランセーズの理事会メンバーであり、2001年には理事長(président)、2003年には名誉理事長(理事長はクロード・ベリ、館長はセルジュ・トゥビアナ)となった。

2024年8月29日にベルサイユの自宅で死去。98歳没[1]

人物

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妻はジネット・マチュー。タケラ作品を支える女優。

フィルモグラフィー

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主な脚本作

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監督作(短編)

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監督作(長編)

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脚注

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外部リンク

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