ジャン・バビレ
ジャン・バビレ(Jean Babilée、1923年2月2日[1] - 2014年1月30日)は、フランスのバレエダンサー・振付家である。第二次世界大戦後の最高傑作の1つといわれるバレエ『若者と死』(ジャン・コクトー台本、ローラン・プティ振付)の初演者として知られる[2]。
経歴
[編集]ジャン・バビレの本名はJean Gutman(n)と言い、内科医の息子としてパリに生まれた[3]。
1936年から1940年まで、パリ・オペラ座バレエ学校でバレエを学び、アレクサンドル・ヴォリーニン、ヴィクトル・グゾフスキーの教えを受けた[2][4]。
1940年にカンヌでダンサーとしてデビューし、1943年にはパリ・オペラ座にコールド・バレエの一員として採用されたが、間もなく退団して第二次世界大戦中の一時期、フランスのレジスタンス「マキ」の一員として戦っていた[2][3][4]。大戦の終了後は、バレエ・デ・シャンゼリゼ(Les Ballets des Champs-Elysées)などでダンサーとして活躍した[3][4]。
この時期に、バビレはローラン・プティ振付『若者と死』の「若者」役を初演し、この役は彼の最大の当たり役になった[2][5][6]。ジャン・コクトーは「ニジンスキーに匹敵する」との賞賛を送っている[2]。
1950年代には、バビレはパリ・オペラ座バレエ団やアメリカン・バレエ・シアターのゲストダンサーとして活躍を続けた。1955年には、彼自身が主宰するバレエ団(Les Ballets Jean Babilée)を結成したが、このバレエ団は1959年に解散した[5]。その後、1972年から1973年にかけてストラスブールのライン・バレエ団の監督を務めた[5]。また、彼は振付家として『兵士の物語』(1971年)などを発表している。
1979年、56歳になったバビレはモーリス・ベジャールが彼のために振付けた『ライフ』をニューヨークで踊り、1984年にはパリにおいて『若者と死』でマルセイユ国立バレエ団と共演している[5]。2014年1月30日、生地のパリで死去した[2]。
脚注
[編集]- ^ バビレの生年と誕生日については、1922年説、2月3日説もあるが、ここでは英語版ウィキペディアの記述に従った。
- ^ a b c d e f 三光洋 (2014年2月4日). “『若者と死』の初演を踊ったジャン・バビレ死す・・・・”. Chacott. 2015年12月14日閲覧。
- ^ a b c Music: High Jumper from Paris Monday, Apr. 23, 1951 2011年5月22日閲覧。
- ^ a b c 『オックスフォード バレエダンス事典』389頁。
- ^ a b c d 『オックスフォード バレエダンス事典』390頁。
- ^ 1946年6月25日に初演された。
参考文献
[編集]- 小倉重夫編『バレエ音楽百科』(音楽之友社)ISBN 4-276-25031-5
- デブラ・クレイン、ジュディス・マックレル 『オックスフォード バレエダンス事典』 鈴木晶監訳、赤尾雄人・海野敏・長野由紀訳、平凡社、2010年、389-390頁。ISBN 978-4-582-12522-1
外部リンク
[編集]- 表象芸術論領域研究発表会を開催しました。(お茶の水女子大学ウェブサイト) 2011年6月5日閲覧。