ジャラールッディーン・ムハンマド・シャー
ジャラールッディーン・ムハンマド・シャー(Jalaluddin Muhammad Shah, 生年不詳 - 1433年)は、東インドのベンガル・スルターン朝、ラージャ・ガネーシャ朝の君主(在位:1418年 - 1433年)。もともとの名をヤドゥ(Yadu)あるいは ジャドゥ(Jadu)といった[1]。
生涯
[編集]1418年、父王ラージャ・ガネーシャが死亡した。彼は前王朝イリヤース・シャーヒー朝からの簒奪者であり、なおかつヒンドゥー教徒であった[2][2]。そのため、ムスリムの有力者らは彼の息子がイスラーム教に改宗することを条件にその王位を認めていた[2]。
後継者たる息子のヤドゥは父王の死後、約束通りにヒンドゥー教からイスラーム教に改宗した。その際にジャラールッディーン・ムハンマド・シャーと名を改めた[2][3]。
ムハンマド・シャーは改宗後、熱烈なイスラーム教徒となり、それを証明するために「スルターン」、「アミール」、「アラーのカリフ」(Khalifat Allah)自称した[4][5]。また、メッカにマドラサを寄進したり、マムルーク朝にいたアッバース朝カリフから認証状を求めたりするなど、正統性を確保しようとした[3]。その行動は同時代の西アジアの史料にも記されている[3]。
ムハンマド・シャーはその公平さで知られ、軍司令官や裁判長にヒンドゥーを割り当てるなど、ムスリムとヒンドゥー教徒を差別なく平等に扱った[2]。
また、その代にベンガル・スルターン朝の領土は広まり、父王と同様にジャウンプルと争い、チッタゴンやファリードプルなどを得て、南ビハールまで版図とした[2]。
ムハンマド・シャーはかつてのギヤースッディーン・アーザム・シャー同様、明に使者を送り朝貢し、ティムール朝のシャー・ルフやマムルーク朝とも使節を交換するなど[5]、国際的にも広い視野を持っていたことで知られる[3][2]。明側の記録には1420年に彼が入貢したことが記されており、「榜葛剌国頭目」の「者剌里丁」と記されている[3]。
1433年、ムハンマド・シャーは死亡し、息子シャムスッディーン・アフマド・シャーが王位を継承した。
脚注
[編集]- ^ Stan Goron and J.P. Goenka: The Coins of the Indian Sultanates New Delhi: Munshiram Manoharlal, 2001.
- ^ a b c d e f g 堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.58
- ^ a b c d e 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.131
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.158
- ^ a b MA Taher, Jalaluddin Muhammad Shah, Banglapedia: The National Encyclopedia of Bangladesh, Asiatic Society of Bangladesh, Dhaka, Retrieved: 2011-04-26
参考文献
[編集]- フランシス・ロビンソン 著、月森左知 訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206年 - 1925年)』創元社、2009年。
- 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』山川出版社、2007年。
- 堀口松城『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』明石書店、2009年。