コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ジャラ・ナート・カナール

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャラ・ナート・カナール

ジャラ・ナート・カナールネパール語: झलनाथ खनाल: Jhala Nath Khanal1950年5月20日 - )は、ネパール政治家統一共産党議長、2011年2月から8月まで同国首相。制憲議会議員(イーラム第1選挙区)。元情報通信大臣。「ジャラ・ナト・カナル」「ジャラ・ナス・カナル」とも表記されるが「ジャラ・ナート・カナール」が正しい。

経歴

[編集]

ネパール東部のイーラム郡生まれ。C.P.マイナリらとともに、ジャパ郡での武装蜂起に加わり、やがてマイナリらとネパール共産党マルクス・レーニン主義派(通称「マレ」)を結成した。1982年1986年、総書記を務めている。前任のチャンドラ・プラカシュ・マイナリ武装闘争路線で失敗した後を受けて、大衆による民衆運動の路線をとった。しかし、マダン・クマール・バンダリーが“複数政党制コミュニズム”を打ち出すとこれに反対した。

1991年、ネパール共産党マルクス主義派と合同して、統一共産党(ネパール共産党統一マルクス・レーニン主義派)の設立に参加。

2006年1月、来日。民主党鳩山由紀夫幹事長らと会談。

マーダブ・クマール・ネパール2008年制憲議会選挙の敗北の責任を負って総書記を辞任した後、党総書記に任ぜられる。

2008年8月15日首相選挙では毛沢東派プラチャンダ候補を支持し、連立与党に加わった。

2009年2月16日からブトワルで開催された第8回党大会で、マン・モハン・アディカリの死後空席となっていた議長に選出された。

2011年1月3日、マーダブ・ネパールの引退表明から後任が決まっていなかった首相職に指名される。ジャーナリスト小倉清子はカナールのほうが、ネパールより強いリーダーシップが取れると指摘していたが、混迷を収拾できず同年8月14日に辞表を提出した。

外部リンク

[編集]
公職
先代
マーダブ・クマール・ネパール
ネパールの旗 ネパール連邦民主共和国首相
第4代:2011年
次代
バーブラーム・バッタライ
党職
先代
マーダブ・クマール・ネパール
ネパール共産党書記長
(統一マルクス・レーニン主義派)

2008年 - 2009年
次代
イーシュワル・ポクレル