コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ジャマール・ティンズリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャマール・ティンズリー
Jamaal Tinsley
引退
ポジション PG
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1978-02-28) 1978年2月28日(46歳)
出身地 ニューヨーク州ニューヨーク市
ブルックリン区
身長(現役時) 191cm (6 ft 3 in)
体重(現役時) 84kg (185 lb)
キャリア情報
出身 アイオワ州立大学
ドラフト 2001年 全体27位
選手経歴
2001-2009
2009-2010
2011
2011-2013
インディアナ・ペイサーズ
メンフィス・グリズリーズ
LAディーフェンダーズ(D-League)
ユタ・ジャズ
受賞歴
Stats ウィキデータを編集 Basketball-Reference.com
Stats ウィキデータを編集 NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten

ジャマール・ティンズリーJamaal Lee Tinsley1978年2月28日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ブルックリン区出身の元プロバスケットボール選手。ポジションはポイントガード。身長191cm、体重84kg。

経歴

[編集]

生い立ち

[編集]

ティンズリーはストリートボールの聖地であるニューヨークのラッカーパークで、「The Abuser」の異名で知られていた。荒んだ少年時代を過ごしていたティンズリーは高校を中途退学するも、その後GEDに合格することで、マウント・サン・ハシント大学(MSJC)進学への道を手にした。

大学時代

[編集]

MSJCでの2年目となった1998-99シーズンには22得点9.8アシスト4.5スティールの成績で、フットヒル・カンファレンスのMVPに選ばれ、チームは32勝6敗の戦績を残した。翌1999-2000シーズンからはアイオワ州立大学でプレイし、1年目にはチームをNCAAトーナメントのエリート8に導き、自身がこのシーズンに記録した通算244アシストはジェフ・ホーナセックの記録を破って同校の新記録となった。翌00-01シーズンにはAP通信選出のオールアメリカンセカンドチームに選ばれた。

NBA時代

[編集]

2001年のNBAドラフトにてメンフィス・グリズリーズから1巡目27位指名を受けるが、その後すぐにインディアナ・ペイサーズに放出された。1年目から先発に抜擢されたティンズリーは期待を裏切らない活躍を見せ、NBAデビューしてから1ヶ月も満たない11月22日ワシントン・ウィザーズ戦では、19得点11リバウンド23アシストで早くもトリプル・ダブルを叩き出した。なお23アシストは現在もティンズリーのキャリアハイである。ルーキーイヤーとなった01-02シーズンは9.4得点8.1アシストの成績でオールルーキーセカンドチームに選ばれた。

素晴らしい才能を秘めたように見えたティンズリーだが、しかしルーキーシーズン以降は伸び悩みのシーズンが続いた。03-04シーズンには開幕から先発を外されてしまい、また故障も抱えるようになったティンズリーはこのシーズンを30試合欠場した。シーズン後半には先発に返り咲き、翌04-05シーズンには15.4得点6.4アシストの好成績を残しが、怪我に付き纏われ、04-05シーズンと翌05-06シーズンはシーズンの半分を欠場した。翌06-07シーズンは怪我から復調し、72試合に出場するも、今度は私生活でトラブルが重なるようになり、問題行動がチームからの出場停止処分へと発展したこともあった。

07-08シーズンは12月にさっそく銃撃を受けるというトラブルに見舞われたが、ベテランとしての役割を果たすようになり、2004年の乱闘事件以降低迷しているチームを支えていた。しかし、たび重なる故障やトレード発言が原因でチームの方針により08-09シーズンは1試合も出場することなくシーズンを終えた。シーズン終了後、ついにペイサーズから解雇された。その後、11月14日にメンフィス・グリズリーズと契約した。

2011年、ユタ・ジャズに加入。2013年までプレー後、引退した。

脚注

[編集]

外部リンク

[編集]