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ジェームズ・リヴィングストン (初代キルシス子爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

初代キルシス子爵ジェームズ・リヴィングストン英語: James Livingston, 1st Viscount Kilsyth1616年6月25日1661年9月9日)は、スコットランド貴族清教徒革命では王党派に属し、王政復古の後に子爵に叙された[1]

生涯

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サー・ウィリアム・リヴィングストン・オブ・キルシス英語版(1627年没)と2人目の妻マーガレット(Margaret、旧姓ヒューストン(Houston)、サー・ジョン・ヒューストンの娘)の息子として、1616年6月25日に生まれた[1]。1647年4月23日、兄弟の孫ウィリアムの遺産継承者に認定された[1][2][3]

清教徒革命では王党派に属し、1645年に初代モントローズ侯爵ジェイムズ・グラハムとの戦役で大きな損害を受け、1650年から1651年にかけてはイングランド軍とスコットランド軍の双方から自領を略奪され、自身の邸宅も焼き討ちにされた[2]。ただし、キルシス城(Kilsyth Castle)に駐留したことで1650年10月7日にチャールズ・ステュアート(後の国王チャールズ2世)から感謝の手紙が届けられた[3]。1654年、クロムウェル恩赦法英語版により1,500ポンドの罰金を課されたが[3]、後に800ポンドに減額されている[2]

1661年、スターリングシャー選挙区英語版の代表としてスコットランド王国議会英語版議員を務めた[2]。同年8月17日、スコットランド貴族であるキャンプシー卿キルシス子爵に叙されたが、その3週間後の9月7日にロンドンで死去、息子ジェームズが爵位を継承した[1]

家族

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1639年12月10日、ユーフェイム・カニンガム(Euphame Cunninghamサー・デイヴィッド・カニンガムの娘)と結婚、2男2女をもうけた[2]

出典

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  1. ^ a b c d e f Cokayne, George Edward; Doubleday, Herbert Arthur; Howard de Walden, Thomas, eds. (1929). The Complete Peerage, or a history of the House of lords and all its members from the earliest times, volume VII: Husee to Lincolnshire. Vol. 7 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press. pp. 265–266.
  2. ^ a b c d e f Henderson, Thomas Finlayson; Muir, Alison G. (23 September 2004). "Livingston [Livingstone], James, of Barncloich, first Viscount Kilsyth". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/16806 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  3. ^ a b c Henderson, Thomas Finlayson (1893). "Livingstone, James (1616-1661)" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 33. London: Smith, Elder & Co. pp. 397–398.
  4. ^ "Eglinton, Earl of (S, 1506/7)". Cracroft's Peerage (英語). 24 June 2019. 2020年12月20日閲覧

外部リンク

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スコットランド王国議会英語版
先代
サー・ジェームズ・ホープ
ジョージ・ブキャナン
サー・チャールズ・アースキン
議員英語版スターリングシャー選挙区英語版選出)
1661年
同職:ジョン・マレー
次代
ジョン・マレー
ジョン・ブキャナン
スコットランドの爵位
爵位創設 キルシス子爵
1661年
次代
ジェームズ・リヴィングストン