ジェプツンタンパ3世
ジェプツンタンパ3世(1758年 - 1773年)は、モンゴルの北部ハルハを本拠として活動した化身ラマの名跡ジェプツンタンパの第3代。法名としてイシダンバニャム (lshidambanima) 、イェシェタンパニマ (ye Shes dampa nyima) の名をもつ。
チベットに転生
[編集]ジェプツンダンパの名跡は初代以来、2代にわたりトシェート・ハーンの首長家から出て、部族の枠を超えた宗教的・政治的権威を発揮し、ハルハ全体の動向に大きな影響をふるった。清朝はチンギス・ハンの子孫たちのうち、かつて全モンゴルを支配したことがあるチャハル部や帰化城トメト部の首長家を取り潰していたが、乾隆帝は、モンゴル全体を統合しうる権威をもつ家系がふたたび出現することを防ぐため、第2世の転生者をチベットで捜索させるよう指示した[1]。
ジェプツンダンパ3世は、父はチベット東部リタンの領主[2]テンジンゴンボ (bstan 'dzin mgon po) 、母ノルジンワンボの子として、1758年に奇瑞とともに誕生した[3]。
1762年8月、ハルハ王公はイヘ・フレーに会し、サキャ・パンディタ・ホトクトをはじめとする800人の迎接団の派遣を決定、団長に有力王公を推挙し、乾隆帝はザサクト・ハン・マニバダラを指名した[4]。10月、イヘ・フレーを出発、翌63年4月リタン着。同月リタン発、西寧、寧夏、オルドス経由で、9月南モンゴルのドロン・ノールに着[5]。ここでチャンキャ・ルルペードルジェより戒律を授かる[6]。11月、イヘ・フレーに坐牀した。
夭折
[編集]第3世の在位中、ジェプツンタンパの移動教団イヘ・フレーでは組織の整備や仏殿、学堂の整備などが進んだが、3世自身はなんらなすことのないまま、1773年夭折した。
「夢」によりチベット出身の伝統確立を目指す
[編集]乾隆帝は3世夭折の報を受けると、夢の中に3世が姿を現し、「故郷のチベットにかえる」と告げた後、西方に向け急ぎ去ったと述べ、ジェプツンタンパがチベットに生誕するという伝統の確立を図った[7]。
脚注
[編集]- ^ 札奇斯欽, 1978, p.646
- ^ 乾隆31年、里塘宣撫司の「宣撫使」職を受けている。 龔蔭, 1992, p.324
- ^ 札奇斯欽, 1978, p.647
- ^ 岡、1992年、p.4
- ^ 岡、1992年、pp.4-5
- ^ 札奇斯欽, 1978, p.649
- ^ 橋本, 1942, p.124
参考文献
[編集]- 札奇斯欽「蒙古政教領袖、哲布尊丹巴與西藏之関係」『蒙古與西藏歴史關係之研究』正中書局、1978年、ISBN 957-09-0358-9、第18章 pp.609-670
- 橋本光寳「蒙古の二大喇嘛 第一節 哲布尊丹呼圖克圖」『蒙古の喇嘛教』佛教公論社、1942年、第四章 pp.113-121
- 岡洋樹「第三代ジェヴツンダムバ・ホトクトの轉生と乾隆帝の對ハルハ政策」『東方学』83号、1992年1月、pp.95-108
関連項目
[編集]- ジェプツンタンパ1世 ロブサン・ダンビジャンツァン(ロサン・テンペーゲンツェン)、ザナバザル、ジニャーナバジュラ (1635年 - 1723年)
- ジェプツンタンパ2世 ロブサン・ダンビトゥンミ(ロサン・テンペートンメ) (1724年 - 1757年)
- ジェプツンタンパ4世 ロブサン・トゥブダンワンチュク(ロサントゥブテンワンチュク・ジグメギャムツォ) (1775年 - 1813年)
- ジェプツンタンパ5世 ロブサン・チュルテムジグミッド(ロサンツルティムジグメ・テンペーギェンツェン) (1815年 - 1841年)
- ジェプツンタンパ6世 ロサン・テンペーギェンツェン (1842年/1843年 - 1848年)
- ジェプツンタンパ7世 ガワン・チューキワンチュク・ティンレーギャムツォ (1849年/1850年 - 1868年)
- ジェプツンタンパ8世 ガワン・チョイジニャム・ダンジンワンチュク(ガワンロサン・チューキニマ・テンジンワンチュク) (1870年/1871年 - 1923年/1924年)
- ジェプツンタンバ9世 ジャンペルナムギャル・チューキギェンツェン (1932年 - 2012年)