ジェニュインリスク
ジェニュインリスク | |
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欧字表記 | Genuine Risk |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牝 |
毛色 | 栗毛 |
白斑 | no |
生誕 | 1977年2月15日 |
死没 | 2008年8月18日(31歳没) |
父 | Exclusive Native |
母 | Virtuous |
母の父 | Gallant Man |
生国 | アメリカ合衆国 |
生産者 | Mrs. G. W. Humphrey Jr. |
馬主 | Mrs. B. R. Firestone |
調教師 | LeRoy Jolley (USA) |
競走成績 | |
生涯成績 | 15戦10勝 |
獲得賞金 | 64万6587ドル |
ジェニュインリスク (Genuine Risk) とは、アメリカ合衆国の競走馬、繁殖牝馬である。1980年、リグレット以来65年ぶり・史上2頭目の牝馬によるケンタッキーダービー優勝を達成。同年のエクリプス賞最優秀3歳牝馬。1986年、アメリカ競馬名誉の殿堂入り。「20世紀のアメリカ名馬100選」では第91位に選出されている。主戦騎手はファシント・ヴァスケス。
経歴
[編集]1977年2月、ケンタッキー州の牧場に生まれる。翌1978年7月にファシグティプトン社が開催したセリ市において3万1500ドルで落札され、ファイアストーン夫妻の所有馬となった。1979年、競走年齢の2歳に達してニューヨーク州のルロイ・ジョリー厩舎に入る。
戦績
[編集]9月30日のメイドン(未出走・未勝利戦)で初勝利を挙げると、続くアローワンス(一般競走)、テンプテッドステークスと3連勝を遂げる。重賞初出走となったデモワセルステークスでは、この年の最優秀2歳牝馬に選出されるスマートアングルを鼻差で退け、無敗のままシーズンを終えた。
翌1980年3月に復帰し、緒戦の一般競走を2馬身半差で勝利する。これにより、春は牡馬を相手にクラシック路線を進むことが決定し、次走はケンタッキーダービーへの前哨戦としてハンデキャップ競走に出走。ここも快勝し6連勝を達成したが、楽に勝ち過ぎたと見た陣営は、2週間後、クラシック有力馬が集うウッドメモリアルステークスへ向かった。レースでは、終始先行したプラグドニックルから1馬身半差の3着となり、初の敗戦を喫した。
クラシックへ出走
[編集]改めて出走したケンタッキーダービーでは、前年の最優秀2歳牡馬ロックヒルネイティヴが1番人気、プラグドニックルが2番人気となり、1959年のシルヴァースプーン(5着)以来21年振りの出走牝馬となった本馬は、13頭立ての6番人気であった。レースでは先団を進み、第3コーナーで先頭に立つと、最後は追い込んできたランボを1馬身凌いで優勝。牝馬として65年ぶり、史上2頭目のケンタッキーダービー制覇を果たした。
続く二冠目のプリークネスステークスでは1番人気に支持される。レースでは追走に手間取って中団を進んだが、第3コーナーで上位に進出すると、第4コーナー出口では先頭を行くコーデックスに並び掛けた。しかしこの際に両馬が激しく接触し、直線でジェニュインリスクが失速。最後は突き放され、4馬身強の差で2着に終わった。競走後、コーデックス鞍上のアンヘル・コルデロ・ジュニアが第4コーナーでジェニュインリスクの進路を妨害しようとしたうえ、顎、眼窩、首を鞭で叩いたとして、ジェニュインリスク陣営からメリーランド州競馬委員会に審議を求める申し立てが行われた。しかし馬体の接触は故意の行為とは認められず、鞭で叩いた事実もビデオでは確認できないとして、結果の変更はなかった。
クラシック最終戦のベルモントステークスは、12ハロン(約2400メートル)という距離と不良馬場が不安視され、コーデックス、ランボに次ぐ3番人気となる。レースでは最内枠の発走から先行すると、直線ではロックヒルネイティヴ、テンパランスヒルとともに競り合いとなった。しかし最後はテンパランスヒルが抜け出し、ジェニュインリスクは2馬身差の2着となってクラシックへの挑戦を終えた。
引退まで
[編集]ベルモントステークスのあとはしばし休養し、9月にマスケットステークスで復帰。ひさびさの牝馬限定戦出走に、圧倒的な1番人気に支持された。しかしケンタッキーオークスやコーチングクラブアメリカンオークスなどの優勝馬ボールドンディターミンとの競り合いにハナ差遅れ、初めて牝馬相手に敗れた。続くラフィアンハンデキャップでは優勝、次走に予定していたベルデイムステークスを回避し、休養に入る。この年のエクリプス賞最優秀3歳牝馬部門では、牡馬相手の快挙を達成したジェニュインリスクと、直接対決で勝利し、この年12戦9勝・うちG1競走5勝という成績を残したボールドンディターミンのどちらが受賞するかが注目を集めたが、三冠路線での安定した活躍が評価され、ジェニュインリスクに賞が贈られた。
翌1981年も競走生活を続行、一般競走を9馬身半差で圧勝して4歳シーズンを始動した。続く一般競走で芝コースに初出走したが、3着に敗退。その後ダートに戻った一般競走を8馬身差で制し、牡馬相手のウッドワードステークスに臨む予定であったが、競走数日前に出走を回避。同時に競走馬引退、繁殖入りが発表された。
引退後
[編集]引退後は馬主のファイアーストーン夫妻が所有する牧場で繁殖牝馬となったが、死産、流産、不受胎などを繰り返し、10年以上に渡り産駒のないまま過ごした。1990年にスリーチムニーズファームに移って治療が続けられ、1992年に初めて、父ラーイの健康な牡駒を産み、「ジェニュインリスク出産」の見出しでブラッド・ホース誌の表紙を飾った。その後、1996年にふたたび牡駒(父チーフホンチョ)を産み、2000年に繁殖生活からも引退した。両馬はともに競走馬としては出走せず、ラーイとの産駒はジェニュインリワードの名で種牡馬に、チーフホンチョとの産駒は去勢されてショーホースとなった。
その功績を記念し、1984年よりニューヨーク州ベルモントパーク競馬場において、G2競走「ジェニュインリスクブリーダーズカップハンデキャップ」が創設され、2006年まで施行された。その後もジェニュインリスクは長寿を保っていたが、2008年8月18日、老衰により31歳で死亡した。
血統表
[編集]ジェニュインリスクの血統(レイズアネイティヴ系 / Bois Roussel4×5=9.38%(母内) | (血統表の出典) | |||
父 Exclusive Native 1965 栗毛 アメリカ |
父の父 Raise a Native 1961栗毛 アメリカ |
Native Dancer | Polynesian | |
Geisha | ||||
Raise You | Case Ace | |||
Lady Glory | ||||
父の母 Exclusive 1953栗毛 アメリカ |
Shut Out | Equipoise | ||
Goose Egg | ||||
Good Example | Pilate | |||
Parade Girl | ||||
母 Virtuous 1971 鹿毛 アメリカ |
Gallant Man 1954 鹿毛 イギリス |
Migoli | Bois Roussel | |
Mah Iran | ||||
Majideh | Mahmoud | |||
Qurrat-al-Ain | ||||
母の母 Due Respect 1958鹿毛 イギリス |
*ズクロ Zucchero |
Nasrullah | ||
Castagnola | ||||
Auld Alliance | Brantome | |||
Iona F-No.1-n |
外部リンク
[編集]- 競走馬成績と情報 JBISサーチ