コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ジェシカ・ディスモア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジェシカ・ディスモア
Jessica Dismor
自画像(1929)
生誕 1885年3月3日
Gravesend, Kent
死没 1939年8月29日
イギリス,ロンドン
運動・動向 ヴォーティシズム
テンプレートを表示

ジェシカ・ディスモア(Jessica Stewart Dismorr、1885年3月3日 - 1939年8月29日)はイギリスの画家である。20世紀初頭のイギリスにおける前衛的な美術グループの多くに参加した女性画家である。

略歴

[編集]

ケントのGravesendに、裕福な企業家の娘に生まれた[1]。家族は1890年代にロンドンハムステッドに移り、ロンドンで教育を受けた[2]。1902年から1903年の間、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンスレード美術学校で学んだ後、1904年から多くの芸術家が集まっていたフランスのパ=ド=カレー県の町、エタンプでアメリカ出身の画家、マックス・ボームに学び、1910年から1913年の間はパリの私立の美術学校、Académie de La Paletteで、キュビスムの画家、ジャン・メッツァンジェに学んだ。「スコティッシュ・カラリスト」と呼ばれる、ジョン・ダンカン・ファーガソン(John Duncan Fergusson)のグループとも交流した[3][4]

パリでは、アメリカ出身の女性画家、マーガリート・トンプソン(後にウィリアム・ゾラックと結婚する)とスタジオを共有した[1]。1912年にロンドンのAllied Artists Associationの展覧会に出展し、ファーガソン、サミュエル・ペプローの「スコティッシュ・カラリスト」がロンドンの画廊で開いた展覧会にも出展した[2]。1912年から1914年の間はパリのサロン・ドートンヌにも出展した。Allied Artists Associationにはフォービズムの影響を受けた作品を出展した[5]

1913年に「ヴォーティシズム」の重要な人物であるパーシー・ウインダム・ルイスと出会い、1914年にそのグループの「Rebel Art Centre」に入会した。1914年に創刊された「ヴォーティシズム運動」の機関紙「Blast」創刊号の宣言の署名者となり[6]、1915年の第2号に文章や挿絵を書いた。ヴォーティシズムの運動は長く続かなかった。第一次世界大戦が終わった後、「ヴォーティシズム」のメンバーの一部は、「Group X」として一度だけ展覧会を開き、ディスモアもこれに参加した。

第一次世界大戦が始まると、フランスで看護師として働いた。第一次世界大戦後、神経衰弱に苦しむが1930年代には抽象画を描いた。

第二次世界大戦が開戦となろうとする直前の1939年8月29日に、ロンドンの自宅で自殺した。[2]

作品

[編集]

参考文献

[編集]
  1. ^ a b Quentin Stevenson (2000). Jessica Dismorr and Catherine Giles. The Fine Art Society PLC 
  2. ^ a b c HCG Matthew & Brian Harrison (Editors) (2004). Oxford Dictionary of National Biography Vol 56 (Usk-Wallich). Oxford University Press. ISBN 0-19-861406-3 
  3. ^ Gaze, Delia (1997). Dictionary of Women Artists, Volume 1. Chicago: Fitzroy Dearborn Publishers. p. 460. ISBN 1-884964-21-4 
  4. ^ Alicia Foster (2004). Tate Women Artists. Tate Publishing. ISBN 1-85437-311-0 
  5. ^ Marion Whybrow (1994). St Ives 1883-1993 Portrait of an Art Colony. Antique Collectors' Club. ISBN 1851491708 
  6. ^ Penny Dunford (1990). A Biographical Dictionary of Women Artists in Europe and America since 1850. Harvester Wheatsheaf. ISBN 0 7108 1144 6