ジェームズ・ストップフォード (第3代コータウン伯爵)
第3代コータウン伯爵ジェームズ・ストップフォード(英語: James Stopford, 3rd Earl of Courtown KP PC、1765年8月15日 – 1835年6月15日)は、アイルランド王国出身の貴族、政治家。トーリー党に所属し、王室会計長官(1793年 – 1806年、1807年 – 1812年)、恩給紳士隊隊長(1812年 – 1827年)、国王親衛隊隊長(1835年)を歴任した[1]。
生涯
[編集]第2代コータウン伯爵ジェームズ・ストップフォードとメアリー・ポウィス(1810年1月3日没、リチャード・ポウィスの娘)の息子として、1765年8月15日にミドルセックスのバークリー・ストリート(Berkeley Street)で生まれ、セント・ジョージ・ハノーヴァー・スクエア教会で洗礼を受けた[1]。
1779年から1781年までイートン・カレッジで教育を受けた後、1781年にエンサインとして近衛歩兵第2連隊に入隊、1788年に大尉に昇進したのち、1791年に軍務から引退した[2]。1790年イギリス総選挙で母の親族にあたる初代アイルズベリー伯爵トマス・ブルーデネル=ブルースの手配によりグレート・ベッドウィン選挙区で庶民院議員に当選、議会で父と同じく第1次小ピット内閣を支持、1791年にスコットランドにおける審査法廃止に反対した[2]。1793年に父の後任として王室会計長官に就任[1]、同年6月21日に枢密顧問官に任命された[3]。その後、1796年イギリス総選挙でラナーク・バラ選挙区に鞍替えして再選、1802年イギリス総選挙でダンブリーズ・バラ選挙区に鞍替えして再選[1]、第2次小ピット内閣(1804年 – 1806年)を支持したが、次の挙国人材内閣(1806年 – 1807年、グレンヴィル男爵内閣)で王室会計長官を解任されたため野党に回り、同年の総選挙でグレート・ベッドウィン選挙区に鞍替えして再選した[2]。翌年に第2次ポートランド公爵内閣(1807年 – 1809年)が成立すると王室会計長官に復帰、それに伴う出直し選挙ではマールバラ選挙区から出馬して当選した[2]。
1810年3月30日に父が死去すると、コータウン伯爵位とソルターズフォード男爵位を継承して[1]、貴族院に移籍した。その後、1812年4月[2]に恩給紳士隊隊長に転じ、1827年まで務めた[1]。1813年から1831年までウェックスフォード県総督を務めた[1]。1821年8月20日、聖パトリック勲章を授与された[2]。
1835年1月から4月まで国王親衛隊隊長を務めたのち[1]、同年6月15日にウィンザー城にある、セント・ジョージ礼拝堂参事会員である弟リチャード・ブルースの住居で死去した[4]。息子ジェームズ・トマスが爵位を継承した[1]。
家族
[編集]1791年1月29日、メアリー・スコット(1769年 – 1823年4月21日、第3代バクルー公爵ヘンリー・スコットの娘)と結婚[1]、7男5女をもうけた[4]。
- ジョージ・ヘンリー・ジェームズ(1792年) - 生後6か月で夭折[1]
- チャールズ - 夭折[1]
- ジェームズ・トマス(1794年3月27日 – 1858年11月20日) - 第4代コータウン伯爵[5]
- エドワード(1795年6月11日 – 1840年7月5日) - 1830年7月5日、ホレイシア・シャーロット・ロックウッド(Horatia Charlotte Lockwood、1838年2月9日没、トマス・ロックウッドの娘)と結婚、子供あり[5]
- ヘンリー・スコット(1797年10月21日 – 1881年10月28日) - 聖職者。1826年5月10日、アネット・ブラウン(Annette Browne、1842年3月27日没、ウィリアム・ブラウンの娘)と結婚、子供なし[5]
- モンタギュー(1798年11月11日 – 1864年11月10日) - 海軍軍人。1827年8月25日、コーデリア・ウィニフレダ・ウィットモア(Cordelia Winifreda Whitmore、1851年9月4日没、サー・ジョージ・ウィットモアの娘)と結婚、子供あり。1853年9月29日、ルーシー・ケイ(Lucy Cay、1883年12月3日没、ジョン・ケイの娘)と再婚、子供あり[5]
- メアリー・フランシス(1839年没[5])
- ロバート(1802年11月23日 – 1828年9月[5])
- エリザベス・アンナ(1804年ごろ – 1832年[4])
- ジェーン(1873年12月28日没) - 1833年4月11日、アベル・ジョン・ラム(Abel John Ram、1883年8月28日没)と結婚、子供あり[5]
- シャーロット(1807年ごろ[4] – 1830年) - 生涯未婚[5]
- キャロライン - 夭折[4]
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary; Doubleday, H. Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 469.
- ^ a b c d e f Thorne, R. G. (1986). "STOPFORD, James George, Visct. Stopford (1765-1835).". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年10月21日閲覧。
- ^ "No. 13539". The London Gazette (英語). 18 June 1793. p. 514.
- ^ a b c d e "Obituary". The Gentleman's Magazine (英語). Vol. IV. London: William Pickering. August 1835. p. 201.
- ^ a b c d e f g h Burke, Sir Bernard; Burke, Ashworth P., eds. (1915). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, the Privy Council, Knightage and Companionage (英語) (77th ed.). London: Harrison & Sons. pp. 529–530.
グレートブリテン議会 | ||
---|---|---|
先代 グラハム侯爵 ドゥーン卿 |
庶民院議員(グレート・ベッドウィン選挙区選出) 1790年 – 1796年 同職:ドゥーン卿 1790年 – 1791年 エドワード・イースト 1792年 – 1796年 |
次代 トマス・ブルース ジョン・ウッドハウス |
先代 ウィリアム・グリーヴ |
庶民院議員(ラナーク・バラ選挙区選出) 1796年 – 1800年 |
次代 連合王国議会 |
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
先代 グレートブリテン議会 |
庶民院議員(ラナーク・バラ選挙区選出) 1801年 – 1802年 |
次代 ウィリアム・ディクソン |
先代 チャールズ・ホープ |
庶民院議員(ダンブリーズ・バラ選挙区選出) 1803年 – 1806年 |
次代 ヘンリー・アースキン |
先代 サー・ロバート・バックストン準男爵 サー・ナサニエル・ダンス=ホランド準男爵 |
庶民院議員(グレート・ベッドウィン選挙区選出) 1806年 – 1807年 同職:ジェームズ・ヘンリー・リー |
次代 ヴィカリー・ギブス ジェームズ・ヘンリー・リー |
先代 ブルース卿 ダルキース伯爵 |
庶民院議員(マールバラ選挙区選出) 1807年 – 1810年 同職:ブルース卿 |
次代 ブルース卿 エドワード・ストップフォード |
公職 | ||
先代 コータウン伯爵 |
王室会計長官 1793年 – 1806年 |
次代 オソルストン卿 |
先代 オソルストン卿 |
王室会計長官 1807年 – 1812年 |
次代 ジョスリン子爵 |
先代 マウント・エッジカム伯爵 |
恩給紳士隊隊長 1812年 – 1827年 |
次代 ヘレフォード子爵 |
先代 ゴスフォード伯爵 |
国王親衛隊隊長 1835年 |
次代 ゴスフォード伯爵 |
アイルランドの爵位 | ||
先代 ジェームズ・ストップフォード |
コータウン伯爵 1810年 – 1835年 |
次代 ジェームズ・トマス・ストップフォード |