シンモエダケ
シンモエダケ | |
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現役期間 | 1971年 - 1973年 |
欧字表記 | Shinmoedake |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牝 |
毛色 | 鹿毛 |
生誕 | 1969年4月4日 |
父 | シプリアニ |
母 | ハクニシキ |
母の父 | ハクリヨウ |
生国 | 日本(北海道浦河町) |
生産者 | 吉川義勝 |
馬主 | 久保光吉 |
調教師 | 田之上勲(栗東) |
競走成績 | |
生涯成績 | 24戦8勝 |
シンモエダケとは、日本のサラブレッド競走馬である。1972年に中央競馬の重賞を2勝した。
来歴
[編集]管理調教師の田之上勲によって馬格の良さを認められ、「400万(円)ぐらい」で馬主に買われた[1]。母ハクニシキは1960年の優駿牝馬(オークス)3着馬であり、田之上も桜花賞よりはオークス向きの馬と評価していた[1]。
1971年
[編集]田之上幸男を鞍上に据え、1971年7月17日、新馬戦(小倉競馬場、以下小倉)でデビューし、芝1000メートルを58秒9のレコードタイムで勝利[2]。8月8日の鎮西3歳ステークス(小倉)も勝利した。そして、藤岡範士に乗り替わった9月26日のオープン(阪神競馬場、以下阪神)も勝ち3連勝。この一戦後しばらく、藤岡が主戦騎手を務めることになる。
10月10日のデイリー杯3歳ステークス(現 デイリー杯2歳ステークス、阪神)では2番人気に支持されたが、最後の直線で馬場の悪い最内に入って脚をとられ[1]4着。その後、11月6日の紅葉杯(京都競馬場、以下京都)を勝利。このあと風邪をひき[1]、11月23日の京都3歳ステークス(京都)4着を経て、12月12日の阪神3歳ステークス(阪神)に出走。2番人気に支持された。レースは、1600メートル、1分35秒1のレコード勝ちを収めたヒデハヤテに8馬身の差をつけられたものの2着を確保した。
1972年・1973年
[編集]1972年、前年より関東地区で流行していた馬インフルエンザの影響により、関東地区の中央競馬の開催が2か月間も開催されない事態が生じたことから、4歳(旧馬齢)クラシック戦線の日程が大幅に変更となり、例年よりもステップレースの期間が長くなったが、シンモエダケは丈夫であったことと「馬が元気なうちは使う」という厩舎の方針から[1]休まずレースを使われた。
1月4日の紅梅賞(京都)を制し、続く1月23日のシンザン記念(京都)では1番人気に支持され、2着のランドジャガーに4分の3馬身差をつけ、重賞初勝利を挙げた。さらに、この一戦だけは田之上の騎乗となった2月26日のオープン(阪神)でも人気に応えて勝った。続く4月9日の毎日杯(阪神)でも1番人気に支持されたものの、不良馬場で勝ち馬のユーモンドに8馬身半差をつけられる3着と完敗したが、4月30日の阪神4歳牝馬特別(現在のフィリーズレビュー、京都)では単勝オッズ1.2倍の1番人気に応えて勝ち[3]、例年より1か月半ほど遅い開催となった5月21日の桜花賞(阪神)でも堂々1番人気に支持された。しかし、逃げるキョウエイグリーンが4ハロンを45秒台で通過するという速いペースについていけず、3コーナー付近で鞍上の手が動くという苦しい展開を強いられたことから7着に終わった。なお、勝ったのは同じ田之上勲厩舎のアチーブスターであった。その後、6月11日の4歳牝馬特別(現在のフローラステークス、東京競馬場)に出走したが、ここでも7着に終わった。優駿牝馬は出走を回避した[2]。
秋シーズンは10月10日のオープン(阪神)から始動したが12着と大敗。続く10月29日の京都牝馬特別(現在の京都牝馬ステークス、京都)でも6着に終わった。11月19日のビクトリアカップ(京都)では3番人気となったが、アチーブスターに約2馬身差の3着。続く12月17日の阪神牝馬特別(現在の阪神牝馬ステークス、阪神)でも3着となった。
1973年は金杯(現在の京都金杯、京都)から始動したが8着に終わった。また藤岡の鞍上はこの一戦が最後となった。その後は田之上が手綱を執り5戦したが1度も勝てず、出走予定だった7月15日の小倉日経賞(小倉)を取り消しになったのを最後に、競走馬生活にピリオドを打った。その後、繁殖牝馬となった。