シャルリュー
Charlieu | |
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行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏 |
県 (département) | ロワール県 |
郡 (arrondissement) | ロアンヌ郡 |
小郡 (canton) | シャルリュー小郡 |
INSEEコード | 42052 |
郵便番号 | 42190 |
市長(任期) |
ブリュノ・ベルトリエ (2014年-2020年) |
自治体間連合 (fr) | Charlieu-Belmont Communauté |
人口動態 | |
人口 |
3700人 (2014年) |
人口密度 | 552人/km2 |
住民の呼称 | Charliendin-e-s |
地理 | |
座標 | 北緯46度09分36秒 東経4度10分21秒 / 北緯46.16度 東経4.1725度座標: 北緯46度09分36秒 東経4度10分21秒 / 北緯46.16度 東経4.1725度 |
標高 |
平均:? m 最低:268 m 最高:378 m |
面積 | 6.7km2 |
公式サイト | www.ville-charlieu.fr |
シャルリュー (Charlieu)は、フランス、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏、ロワール県のコミューン。
地理
[編集]ロアンヌから約20分、サンテティエンヌとリヨンからは約一時間半の距離にある。
由来
[編集]シャルリューの町について初めて言及されたのは827年、Caroli Locus(カールの土地を意味する。おそらくカロリング朝時代発祥であることを意味している)としてである。フランス革命時代にはChallierと改名させられていた。
歴史
[編集]ヴァランス司教ラトベールによってつくられたシャルリュー修道院は、932年よりクリュニー修道院の影響下に入った。946年に修道院はサンテティエンヌの庇護下にあった。修道院は1100年にローマ教皇パスカリス2世によって小修道院に落とされている。
豊かな都市には、多くの場合、職人や商人、羊毛職人が集まって暮らしていた。12世紀、都市のブルジョワたちによって聖フィリベールに捧げられた教区教会が建てられた。
1210年、フィリップ尊厳王はシャルリューを手に入れ、王領の飛び地とし、実際にすぐ防衛が強化された[1]。
15世紀、シャルリューはアルマニャック派とブルゴーニュ派の対立の間重要な役割を担った。この時代は道路交通が都市から離れた時期にあたり、都市の成長が停滞していた。都市は1827年に絹織物の製造が導入されたことで開発が再開された。
この豊かな歴史から、町は黄色い石でできた住宅を多数保存している。石はサン・ドニ・ド・カバンヌの採石場から持ち込まれ(13世紀)、14世紀から15世紀にはルネサンス様式か古典様式で、絵のように美しいハーフティンバー住宅に使われた。
人口統計
[編集]1962年 | 1968年 | 1975年 | 1982年 | 1990年 | 1999年 | 2009年 | 2014年 |
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4911 | 4923 | 4789 | 4322 | 3727 | 3582 | 3680 | 3700 |
参照元:1962年から1999年までは複数コミューンに住所登録をする者の重複分を除いたもの。それ以降は当該コミューンの人口統計によるもの。1999年までEHESS/Cassini[2]、2006年以降INSEE[3][4]。
ギャラリー
[編集]- サン・フォルテュネ修道院 - ベネディクト会派。
- コルドリエ会修道院
- サン・フィリベール教会
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サン・フォルテュネ修道院
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サン・フィリベール教会
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ソワリー祭り
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病院博物館付属の薬局
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シャルリューのアンドゥイエ(臓物入り腸詰)
姉妹都市
[編集]- ケイン、イギリス
脚注
[編集]- ^ José Federico Finó, Forteresses de la France médiévale. Construction - Attaque - Défense, 3e éd. rev., Paris, Picard, 1977, p. 111.
- ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=8444
- ^ http://www.statistiques-locales.insee.fr
- ^ http://www.insee.fr