シブティ・ヒーストン
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シブティ・ヒーストン(英:?、1929年6月10日‐1998年6月17日)はアメリカの政治家。
上院議員、海軍大臣[1]、副大統領(アメリカ合衆国副大統領#歴代副大統領一覧にはない)。アメリカ合衆国大統領選挙にはレーガン大統領に推薦され出馬したが当選しなかった[いつ?]。暗殺未遂事件には二度遭っている[2]。[出典無効]
生涯
[編集]生い立ち
1929年6月10日、アメリカ合衆国アラスカ州で漁師の長男として誕生。毎週日曜日魚釣りに行っていて身近な魚を食べていた。5歳のころ、アムンゼンの勇気という本を読み将来は探検家になることを志した。小学校生活も充実したもので楽しい生活を送っていた。そこには気が合う友人がいっぱいおり漁業関連のことはたくさん話していた。1941年9月、首都ワシントンへ移住。が、その3か月後、日本が真珠湾攻撃をし、太平洋戦争が始まった。それによりハワイにいた父は死亡した。中学校の頃、探検家になりたいと友人に話したがその友人から「もっと現実をみなよ」と言われ諦めた。高校のころ、太平洋戦争が終結。このころから政治に興味を持ち始め政治家になりたいと思い始めた。そのため必死に勉強して、ハーバード大学に入学した。彼は法学部に入部した。成績は学部一でモテモテだったという。
上院議員選挙
卒業後の1953年2月に上院議員選挙に出馬。彼の演説が心を掴み見事当選した。真珠湾攻撃14年となる1955年、ハワイを訪問。ハワイの現状を伝える報告書を提出し、大統領からも頼りにされていた。
1度目の暗殺未遂事件
1958年9月1日、メイン州を大統領と訪問中、45歳の無職の女に銃撃され足を負傷した。女はその日、シークレットサービスに殺害された。約束していた結婚も、もう少し後になった。
結婚と家族づくり
1959年1月14日、5つ下の議員と結婚し、翌年の2月2日、娘が誕生した。約1年間、育休を取り責任をもって育てた。復帰後、ケネディ大統領から「やっと戻ってきてくれたね。君がいない時間は大変だったよ。」と言って歓迎してくれた。
キューバ危機
1962年、キューバ危機が起きどうにかしてキューバを訪問しようとしたが無理だったという。10月26日、フルチショフと電話会議をした。だが不適切な発言をしてしまい閉式となってしまった。2日後にキューバ危機は終わったがソ連から失望されてしまった。
ベトナム戦争と反戦を唱える彼
1965年あたりからアメリカが本格的にベトナム戦争に介入するようになりベトナムに滞在していた母も1967年3月にアメリカ軍の攻撃で死亡した。このことで反戦運動を支援するようになり反戦運動に参加することもあった。妻も参加してくれて一緒に反戦を唱えた。反戦のチラシを巻き上げ運動参加者が多くなった。
妻の死
1972年、運動中、妻が運動参加者に刺殺された。それでも止まらず運動は大きくなっていった。
大臣就任
1974年、海軍大臣に就任した。アメリカ海軍の指導を行い人気のある政治家となった。1976年、沖縄の米軍基地を訪問し、サボる兵士を説教した。1977年、海軍大臣を辞任。再び上院議員に舞い戻ってしまった。1979年3月、娘が病死。葬儀に参列し号泣したという。
副大統領就任
1981年、アメリカ副大統領に就任した。ニューメキシコ州を偵察し、砂漠開拓を推進した。アメリカ政府は砂漠開拓を進め建物などを立て続けに建てた。そのため不満が出て批判された。
二度目の暗殺未遂事件
1984年6月27日、ニューメキシコ州訪問中、ムスリムに銃撃され手を負傷した。一時心肺停止状態に陥ったが一命を取り留めた。このムスリムはこの日が誕生日で英雄教徒として知られていたがシークレットサービスに殺害された。享年63歳。このことで大批判を受けたがそれを耐え続けた。
大統領選挙への推薦の出馬
1989年、アメリカ合衆国大統領選挙に推薦され出馬した。ジョージ・H・W・ブッシュより支持率があったが落選してしまった。その後の演説で「不正が行われたかもしれない」と言っていたが確認されなかった。これにより「政界引退の時が来てしまったようだ」と言って1991年政界を引退した。
闘病生活
1994年、突如血を吐き病院へ行った。病名は胃癌で入院治療を余儀なくされた。が、熱も上がり嘔吐をして咳も酷かった。1995年、胃を摘出して胃を移植した。
退院できずに死去
その後もなかなか退院はできず1997年12月29日、大量に吐血した。集中治療室で治療し一命を取り留めた。だがその後、1998年6月15日、急に血便を出し病院の点数も引かれてしまった。17日、意識不明になり治療されたが夜遅く、死亡が確認された。69歳没。
遺体処理
彼が亡くなったのはフロリダ州だったので遺体移送には時間がかかった。アラスカ州に到着したのは23日で通夜や葬儀は終わったのは27日の事だった。彼は珍しく火葬され太平洋に遺骨は30日に投げ込まれた。
脚注
[編集]- ^ アメリカ合衆国にはアメリカ合衆国海軍長官はあるが、海軍大臣はない
- ^ “Information Policy of the Reagan Administration”. Journal of Information Processing and Management 26 (7): 509–518. (1983). doi:10.1241/johokanri.26.509. ISSN 1347-1597 .