シネポエム
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シネポエムは、映画用語としては「映画自体が詩であるもの」つまり映像による詩的表現のことを指し、文学用語としてはシナリオ形式を借りた詩のことを指す[1]。
映画的シネポエムの例
[編集]- マン・レイ監督の『ひとで』および『エマク・バキア(独りにしてくれ)』
文学的シネポエムの例
[編集]- 竹中郁の『ラグビイ』[2]
- 杉山平一の、ある詩作品[3]
- 萩原朔太郎が雑誌『シナリオ研究』に寄稿した詩作品「貸家札」。(朔太郎のシネポエムが載った『シナリオ研究』は、北川冬彦らが主催したシナリオ研究十人会の機関紙であった)[4]。
参考書籍
[編集]- 北川冬彦著 『シナリオの魅力』(社会思想研究会出版部)
- 北川冬彦著 『純粋映画記』(ゆまに書房)
- クリストフ・ウォール・ロマーナ著(ミネソタ大学リベラルアーツ・カレッジ教員)[5] 『Cinepoetry: Imaginary Cinemas in French Poetry (Verbal Arts: Studies in Poetics)』[6]
関連項目
[編集]- レーゼシナリオ - 「シナリオ形式の文学作品」という定義からすると、文学的シネポエムもレーゼシナリオの一種に分類される。
- 飯島正 - フランスのシネポエムを紹介した[7]。
- 北川冬彦 - シナリオ形式から影響を受けた『氾濫』などの長編叙事詩を書いた[8]。北川は自著『純粋映画記』所収の「映画と詩」という章で竹中の「ラグビイ」をシネポエムと一例として評価した後に「私はシネポエムというものも詩の一形式として充分な存在理由はあるとは思うが、しかし私はこれが新しい詩の形式であることよりも、シネポエムというものを書く詩人の精神を重視するものだ。というのはこのシネポエムを書くということは、唯心論的詩観を唯物論的詩観へと変質せしめるに与って力あること大だと思うからである」と述べた[9]。
- バンジャマン・フォンダーヌ
出典
[編集]- ^ (陶山大一郎「事象との邂逅 : 竹中郁の初期詩篇における感覚についての断片的覚書」『総合文化研究』第17巻、東京外国語大学総合文化研究所、2014年3月、62-87頁、doi:10.15026/76252、ISSN 1883-1109、CRID 1050001337708634624。)近藤東が「映画詩」について語ったこと。両語はパラフレーズされていることは、文脈上自明。
- ^ 事象との邂逅─竹中郁の初期詩篇における感覚についての断片的覚書 陶山大一郎
- ^ モンタージュの詩学 杉山平一の映像論より(「現代詩手帖」2012年9月号山田兼士
- ^ ゆまに書房HP
- ^ ミネソタ大学ホームページ
- ^ アマゾン・ドットコム 本書のページ
- ^ 北川冬彦『シナリオの魅力』所収「シナリオ文学運動の将来性」の章(社会思想研究会出版部 1953年)
- ^ 『シナリオの魅力』北川著
- ^ 『純粋映画記』(ゆまに書房)「映画と詩」の章