シデナム・エドワーズ
シデナム・エドワーズ Sydenham Edwards | |
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シデナム・エドワーズの原画による版画 | |
生誕 |
1768年 イギリス、Usk |
死没 |
1819年2月8日 イギリス、Brompton |
シデナム・エドワーズ(Sydenham Teast Edwards、1768年 - 1819年2月8日)は、イギリスの博物画家である。
生涯
[編集]モンマスシャーのUskに生まれた。父親は校長でオルガン奏者である。母親の一族には有名な医師のリチャード・リース(Richard Reece)がいる。幼いころから画才を示し、11歳の時に、植物画譜の『ロンドンの植物』の模写を行った。『カーティス・ボタニカル・マガジン』の創刊者、ウィリアム・カーティスの友人がエドワーズの絵を見て、カーティスに紹介し、カーティスから植物学と植物画の訓練を受けた。
エドワーズの博物画は人気を集めた。当時世界中から探検家たちによって新しい植物がヨーロッパにもたらされた時代であったので、植物への一般の関心のたかまりは植物画の需要をもたらし、エドワーズは多くの植物画を描いた。『ボタニカル・マガジン』のために1787年から1815年の間に1,700枚の水彩画を描き、1800年に"Cynographica Britannica"の図版を描き、1805年から1807年の間に"New Botanic Garden"のため、1812年に"New Flora Britannica"のために植物画を描いた。カーティスの没した後、ボタニカル・マガジンの編集を引き継いだジョン・シムズと仲違いした後、1815年から1819年の間、自ら編集をおこなって植物雑誌、『ボタニカル・レジスター』("Botanical Register")を刊行した。"Pantologia" や『リース百科事典』("Rees' Cyclopaedia")などの百科事典の図版も描いた。第13代ダービー伯爵に求められて、1810年から1812年の間に多くのオウムの図を完成させた。エドワーズの絵は当時のスポードなどの陶器メーカーの図柄に影響を与えた。ロンドン・リンネ協会の会員に選ばれた。
エドワーズの博物画
[編集]関連項目
[編集]- 同時代のイギリスの植物雑誌
- 『ボタニカル・マガジン』(Botanical Magazine)- ウィリアム・カーティス(William Curtis)、1787年から
- 『ボタニカル・レポジトリー』(botanical repository) - ヘンリー・チャールズ・アンドリュース(Henry Charles Andrews)、1799年から
- 『ボタニカル・レジスター』(Botanical Register) - シドナム・エドワーズ(Sydenham Teast Edwards)、1815年から
- 『ボタニカル・キャビネット』(Botanical Cabinet)- ジョージ・ロッディジーズ(George Loddiges)ら、1817年から
- 『ボタニカル・ガーデン』(Botanical Cabinet)- ベンジャミン・マウンド(Benjamin Maund)、1825年から
参考文献
[編集]- Davies, Kevin L., 'The life and work of Sydenham Edwards, Welshman, Botanical and Animal Draughtsman 1768-1819', in Minerva: the Journal of Swansea History, Vol 9 pp 30-58, published by the Royal Institution of South Wales / Friends of Swansea Museum, 2001.