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サーサーン朝領エジプト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サーサーン朝領エジプト
Պարսկահայաստան
アエギュプトゥス 619年 - 629年 アエギュプトゥス
サーサーン朝領エジプトの位置
東ローマ帝国のエジプト管区英語版の領域。
首都 アレクサンドリア
サーサーン朝皇帝(シャーハンシャー
619年 - 628年ホスロー2世
統治者
619年 - 621年 シャフルバラーズ
621年 - 626年シャフルアーラーニヨーザーン英語版
626年 - 629年シャフルバラーズ
変遷
サーサーン朝のエジプト征服英語版 619年
東ローマ帝国に復帰629年
現在エジプトリビア
エジプトの歴史

このテンプレートはエジプト関連の一部である。
年代については諸説あり。
エジプト先王朝時代 pre–3100 BCE
古代エジプト
エジプト初期王朝時代 3100–2686 BCE
エジプト古王国 2686–2181 BCE
エジプト第1中間期 2181–2055 BCE
エジプト中王国 2055–1795 BCE
エジプト第2中間期 1795–1550 BCE
エジプト新王国 1550–1069 BCE
エジプト第3中間期 1069–664 BCE
エジプト末期王朝 664–332 BCE
古典古代
アケメネス朝エジプト 525–404 BCE, 343-332 BCE
プトレマイオス朝 332–30 BCE
アエギュプトゥス 30 BCE–641 CE
サーサーン朝領エジプト 619–629
中世
アラブのエジプト征服英語版 641
ウマイヤ朝 641–750
アッバース朝 750–868, 905-935
トゥールーン朝 868–905
イフシード朝 935–969
ファーティマ朝 969–1171
アイユーブ朝 1171–1250
マムルーク朝 1250–1517
近世
オスマン帝国領エジプト 1517–1867
フランス占領期 1798–1801
ムハンマド・アリー朝 1805–1882
エジプト・ヘディーヴ国 1867–1914
近代
イギリス統治期英語版 1882–1953
エジプト・スルタン国 1914–1922
エジプト王国 1922–1953
エジプト共和国 1953–1958
アラブ連合共和国 1958–1971
エジプト・アラブ共和国 1971–現在
エジプトの旗

サーサーン朝領エジプト(さーさーんちょうりょうえじぷと、619年629年)はサーサーン朝の支配下に入った時期の、現在のエジプトリビアなどの地域を指す。

サーサーン朝皇帝ホスロー2世東ローマ・サーサーン戦争を引き起こした。戦いの中で、配下の将軍シャフルバラーズエジプトを征服英語版した。ホスロー2世がクーデターにより命を落とし、東ローマ皇帝ヘラクレイオスとサーサーン朝が和平交渉を結ぶまで、エジプトはおよそ10年間に渡りサーサーン朝の支配を受けた。

概要

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アレクサンドリアで鋳造された、ホスロー2世ビザンツ様式の硬貨英語版

エジプトはサーサーン朝(おそらくその将軍シャフルバラーズ)によって征服され、619年頃には、州都アレクサンドリアもサーサーン朝によって陥落した。エジプトの防衛部隊は現地民で構成されていて、その実態は戦闘経験がない警備員のようなものであった[1]。アレクサンドリアを除いては、大きな武力抵抗の痕跡も残っておらず、エジプトの征服は容易であったと考えられる[1]。エジプトは東ローマ帝国の領域の中でも特に裕福な地域であり、その喪失は東ローマ帝国に大きな衝撃を与えた[1]。これらの征服時期はよくわかっていないが、アレクサンドリアのは619年6月までには陥落していて、その後も南に占領地を広げ、621年までには全東ローマ領エジプトを支配している[1]

サーサーン朝のエジプト征服には不明なところが多い。タバリーの記述によると、将軍シャーヒーンが陥落させたとある[2][3]。一方で、シャフルバラーズが征服したと記述する資料もある。現代の歴史家のほとんどは、Shahinは小アジア征服中であり、エジプトへは派遣されておらず、シャフルバラーズがエジプトを陥落させたとみなしている[2]。また、その正確な日時も分かっていないが、発見されたパピルス文書と一次資料から619年頃とされている[4]

シャフルバラーズはシャフルアーラーニヨーザーン英語版がエジプト総督につくまでの間、エジプトを統治した。新たに統治者となった、シャフルアーラーニヨーザーンは「karframan-idar」(「宮廷執事」の意味)の称号を名乗った。エジプトの総督を務めるとともに、徴税官を兼任し、ファイユームに居住したとされる[5]引用エラー: 冒頭の <ref> タグは正しくない形式であるか、不適切な名前です。彼は、単なる徴税官のみならず、武官も兼ねていてエジプトに駐留した軍の指揮官ともされている[5]中期ペルシア語の文献では、エジプトを「Agiptus」として以下のように記述されている。「agiptus būm kē misr-iz xwānēnd」(ミスル(Misr[注釈 1])とも呼ばれるAgiptusの土地)。ナイル川は「rōd ī nīl」と呼ばれた。

626年以降の資料には、シャフルアーラーニヨーザーンについての記述が無く、代わってシャフルバラーズがエジプトの支配者として記述されている[6]。622年頃から東ローマ・サーサーン戦争は東ローマ帝国が攻勢に出ている。626年にはコンスタンティノープル包囲に失敗した。628年にはファッルフ・ホルミズドら貴族によりホスロー2世が廃位され、新たに即位したカワード2世が和平交渉に応じたことで戦争は終結した[7]。カワード2世はシャフルバラーズに占領地から撤退するよう求めたが、それに応じずエジプトから撤退しなかった[2]。ヘラクレイオスはシャフルバラーズと和平交渉を始め、自身の王位簒奪への援助と引き換えにエジプトから撤退した[2][8]。630年1月までにはエジプトが東ローマ帝国のもとに奪還された[2][6]

統治

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シリア語の資料には、ホスロー2世はシャフルバラーズに「服従する者は友好的に受け入れ、平和と繁栄を保て。しかし、抵抗して戦争を起こすような者は剣を持って殺せ」と助言したと記述されているように、征服が行われてすぐは、暴力行為があったが小規模なものに過ぎなかった[9]。サーサーン朝は東ローマ帝国時代の統治機構を維持するとともに[4]、エジプトの臣民には、ゾロアスター教の改宗を強制しなかった。単性論派のキリスト教会を支援し、ビザンツ教会英語版を迫害し、コプト教徒はこの状況の中で、多くの正教会を支配下に置いた[10]。エジプトには数多くのサーサーン朝の駐屯地が設けられた。エレファンティネ島、Herakleia、オクシリンコス、Kynon、テオドシオポリス英語版Hermopolisヘルモポリスアンティノオポリス英語版(Antinopolis)Kosson、リュコス(Lykos)、ディオスポリス(Diospolis)、マクシミアノポリス(Maximianopolis)などがその代表例である。これら駐屯地では臣民から税を徴収し、軍隊用の必需品を調達していた。発見されたパピルスの文書には、サーサーン朝による税の徴収について言及されていて、徴税方法は東ローマ帝国と変わっていないことが分かっている[11]。また別のパピルスには、サーサーン朝兵士とその妹について言及されていて、兵士とともにエジプトに定住した家族がいたことが判明している[12]

エジプトにおけるサーサーン朝の統治は東ローマ帝国の統治に比べるとほんの僅かであったが、その影響は今でも残っている。例えば、殉教者や告白者(confessors)を称えるコプト派の正月の祝祭ナイルーズ英語版は、イラン正月の祝祭ノウルーズに由来する[13]。また、サーサーン朝に関する祝祭日として十字架挙栄祭があり、イエス・キリストが磔となった聖十字架の発見と、628年にサーサーン朝から奪還してエルサレムに返納されたことを記念している。エジプトで繁栄したコプト美術も、サーサーン芸術から大きく影響を受けている[14]

統治者の一覧

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期間 統治者
619年~621年 シャフルバラーズ
621年~626年(?) シャフルアーラーニヨーザーン英語版
626年(?)~629年 シャフルバラーズ

脚注

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注釈

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  1. ^ Misrはアラビア人によるエジプトの呼び方

引用

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  1. ^ a b c d Jalalipour 2014, p. 4.
  2. ^ a b c d e Jalalipour 2014, p. 12.
  3. ^ 青木 2020 p,295
  4. ^ a b Jalalipour 2014, p. 13.
  5. ^ a b Jalalipour 2014, p. 10.
  6. ^ a b Howard-Johnston 2006, p. 124.
  7. ^ 青木 2020 p,303~305
  8. ^ 蔀 2018 p,221,222
  9. ^ Jalalipour 2014, p. 6,7.
  10. ^ Jalalipour 2014, p. 7.
  11. ^ Jalalipour 2014, p. 8.
  12. ^ Jalalipour 2014, p. 9.
  13. ^ Daryaee 2023, p. 1.
  14. ^ Daryaee 2023, p. 2.

参考文献

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関連項目

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