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サム・ナロン (捕手)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
サム・ナロン(サミュエル・ウッディ・ナロン)
Samuel Woody Narron
ピッツバーグ・パイレーツ時代1960年のパレード用の上着
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ノースカロライナ州ミドルセックス[1]
生年月日 (1913-08-25) 1913年8月25日[1]
没年月日 (1996-12-31) 1996年12月31日(83歳没)[1]
身長
体重

5' 10" =約177.8

[1] cm
180 lb =約81.6

[1] kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
初出場 1935年9月15日[1]
最終出場 1943年9月30日[2]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

サム・ナロン(Sam Narron)として知られるサミュエル・ウッディ・ナロン(Samuel Woody Narron、1913年8月25日 - 1996年12月31日)は、メジャーリーグベースボールに所属したアメリカ合衆国のプロ野球選手、コーチ。

甥に捕手としてプレーし、コーチ、監督を務めたジェリー・ナロン[1][3]と、コーチを務めたジョニー・ナロン[3]、孫に投手としてプレーしたサム・ナロン英語版がいる[4]

1934年バイ=ステート・リーグ英語版マーティンズビル・マニュファクチャーズ英語版でプレーした後、1935年に外野手としてセントルイス・カージナルス傘下のオールバニ・トラベラーズ英語版に入団[5]。この年、メジャーリーグに昇格しセントルイス・カージナルスで7試合に出場、捕手として先発出場も果たした[2]。1936年以降は捕手としてマイナーリーグで出場を続けた[5]。1942年にメジャーへ再昇格、1943年にはメジャーに在籍し続けワールドシリーズにも出場している[2]。そしてこれが最後のメジャー出場となった[5]

1944年に一度引退した後、1948年までマイナーでプレーを続けた[5]。最終年となる1948年には、監督兼任も経験している[5]。その後ブランチ・リッキーに重用され、1949年にはブルックリン・ドジャースブルペンキャッチャーとしてワールドシリーズに進出[6]、1951年にピッツバーグ・パイレーツへ移籍した後1964年までブルペンコーチとして在籍、この間1960年にワールドシリーズでチームが勝利している[7]

1996年12月31日、ノースカロライナ州ローリーにて死去[6][2]

成績

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メジャーリーグでは捕手としては通算6試合(先発2試合)の出場記録が残るのみで、多くの出場は代打としてのものであった[2]。3年間で24試合に出場、通算打率.286、28打数8安打1打点1四球の記録を残している[2]

出典

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  1. ^ a b c d e f g Sam Narron #32”. メジャーリーグベースボール. 2020年8月2日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g Sam Narron”. Baseball-Reference. 2020年8月2日閲覧。
  3. ^ a b Ringolsby, Tracy (2014年3月24日). “Oh, Brother! Narrons Living Baseball Dream Together”. MLB.com. 2018年5月18日閲覧。
  4. ^ Byron Kerr (2012年2月15日). “Lefty Sam Narron leaves baseball as a player to become pitching coach for Auburn”. Mid-Atlantic Sports Network. 2020年8月2日閲覧。
  5. ^ a b c d e Nam Sarron”. Baseball-Reference. 2020年8月2日閲覧。
  6. ^ a b AP通信 (1997年1月5日). “Sam Narron, Catcher and Coach, 83 [obituary”]. ニューヨークタイムズ. https://www.nytimes.com/1997/01/05/sports/sam-narron-catcher-and-coach-83.html 2018年5月18日閲覧。 
  7. ^ 1960 Pittsburgh Pirates Statistics”. Baseball-Reference. 2020年8月5日閲覧。

外部リンク

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