サタリー総合病院
サタリー総合病院(サタリーそうごうびょういん、 Satterlee General Hospital)は、南北戦争中の1862年から1865年にかけて、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアに設けられていた、北軍最大の病院。ゲティスバーグの戦いの後には、数千人におよぶ北軍兵士や南軍捕虜が、サタリーで治療を受けた[1]。
この病院は、1862年に合衆国軍医総監ウィリアム・アレクサンダー・ハモンドの指示で、まだ開発がさほど進んでいなかった ウェスト・フィラデルフィア地区の42丁目とボルティモア通りが交わるあたりに建設された。15エーカー (6.1 ha) の敷地は、北側の45丁目とパイン通りの交差点まで広がっていた。この病院は、国中で2番目に大きな規模をもち、南北戦争中の北軍の病院としては最大で、34の病棟と数百のテントに、4,500床のベッドが用意されていた[1]。病院内には図書室、読書室、床屋、印刷所などが備えられ、独自の新聞『The Hospital Register』も発行されていた[2]。
病院の指揮を執っていたのは、外科医で、著名な北極探検家でもあったアイザック・イズラエル・ヘイズ博士であった。看護を担ったのは、この地に修道院を設けていたシスターズ・オブ・チャリティであった。
南北戦争の終戦時までに、サタリーは、12,000人以上の患者の処置をしていた。驚くべきことに、そのうちの死者はわずか260人で、当時の衛生環境やまだ比較的低い水準にあった医療技術の水準を考えると、これは特筆に値することであった[2]。
戦後、この病院は閉鎖され、建物は引き倒された。1890年代には、跡地の大部分は住宅地に転じた。敷地の低い部分の一部は、クラーク公園として残された。
脚注
[編集]- ^ a b Goldstein, Josh. “Gettysburg created crush at Philadelphia hospital”. Philadelphia Inquirer 2015年5月9日閲覧。
- ^ a b “Satterlee USA General Hospital West Philadelphia”. Free Library of Philadelphia. 2015年5月9日閲覧。