コーレーガーオンの戦い
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コーレーガーオンの戦い Battle of Koregaon | |||||||
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第三次マラーター戦争中 | |||||||
コーレーガーオンにある戦勝の塔 | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
イギリス東インド会社 | マラーター王国 | ||||||
指揮官 | |||||||
F. F.スタウントン |
バージー・ラーオ2世 バープー・ゴーカレー | ||||||
戦力 | |||||||
歩兵500人 騎兵250 大砲24門 (ほとんどがマハール兵) |
歩兵8,000 人 騎兵20,000人 | ||||||
被害者数 | |||||||
死傷者175人 | 死傷者500 - 600人 |
コーレーガーオンの戦い(コーレーガーオンのたたかい、英語:Battle of Koregaon)は、1818年1月1日にインドのコーレーガーオンにおいて、イギリス東インド会社とマラーター王国との間に行われた第三次マラーター戦争の戦闘。
戦闘に至る経緯
[編集]1817年11月5日、マラーター軍はイギリス軍にカドキーの戦いで敗れ、そののちプネーをイギリス軍に占領された。
だが、マラーター王国の宰相バージー・ラーオ2世は軍を立て直し、再び同じ規模の戦力でイギリスとの対決に臨んだ。
戦闘とその後
[編集]1818年1月1日朝、マラーター王国軍はイギリス軍とコーレーガーオンで激突した。マラーター軍は前回と同じ騎兵2万・歩兵8,000であったのに対し、イギリス軍はほとんどがダリットから構成された歩兵500・騎兵250と劣勢であった.[1]。
熾烈な戦いは丸一日続いたが、マラーター軍はバープー・ゴーカレーの息子ゴーヴィンド・ラーオ・ゴーカレーが戦死するなどの損害をこうむり、敗北を喫した。バージー・ラーオ2世はコーレーガーオンの戦場から2マイル離れていた丘から観望していたが、敗北を悟ってその夜のうちに撤退した。
その後、この戦いの戦勝を記念するダリットの紋章が刻まれた塔「コーレーガーオン塔」が建てられ、現在まで残っている。
200年後
[編集]2018年1月1日、プネにてコーレーガーオンの戦いの200周年記念式典が開催されたが、ダリットとヒンズー至上主義者が対立し暴動となった[2]。
脚注
[編集]- ^ Naravane 2006, p. 81.
- ^ “印カースト最下層出身者ら、ヒンズー至上主義に抗議デモ”. AFP (2018年1月4日). 2018年4月20日閲覧。
参考文献
[編集]- Naravane, M.S (2006), Battles of the Honourable East India Company: Making of the Raj, New Delhi: APH Publishing, pp. 78–105, ISBN 978-81-313-0034-3