コンラート1世 (オセール伯)
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コンラート1世 Konrad I. | |
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オセール伯 | |
在位 | 860年以降 - 864年ごろ |
出生 |
800年ごろ |
死去 |
864年ごろ |
配偶者 | アデライード・ド・トゥール |
子女 |
コンラート2世 ユーグ ルドルフ ユーディト ヴェルフ1世(2世) |
家名 | 古ヴェルフ家 |
父親 | アルトドルフ伯ヴェルフ1世 |
母親 | ハイルヴィヒ・フォン・バイエルン |
コンラート1世(ドイツ語:Konrad I., 800年ごろ - 864年ごろ)は、アールガウ伯、オセール伯(在位:860年以降 - 864年ごろ)、パリ伯(在位:858年 - 859年)。オセールのサン=ジェルマン修道院の在俗修道院長でもあった[1]。父はアルトドルフ伯ヴェルフ1世[2]。フランク王ルートヴィヒ1世の2番目の妃ユーディトの兄弟。
生涯
[編集]858年にコンラート1世とその一族は東フランク王ルートヴィヒ2世を見捨て、ユーディトの息子であるシャルル2世のもとに降った[1]。コンラート1世らは十分な見返りを与えられ、コンラート1世は多くの伯位を与えられた。ルートヴィヒ2世はバイエルンにおけるコンラート1世の領地を没収した[3] 。
『Miracula Sancti Germani』は、コンラート1世の結婚について記す際に、コンラート1世のことを「Chuonradus princeps」(侯、君主)と記している。一説によると、コンラート1世の妻アデライードは未亡人となった後にロベール豪胆公と再婚したという。
結婚と子女
[編集]834年から838年の間に、コンラート1世はトゥール伯ユーグの娘アデライード・ド・トゥールと結婚した[4]。
- ユーグ(886年没)[1] - サン=ジェルマン修道院長、ケルン大司教
- コンラート2世(876年没)[1] - オセール伯
- ルドルフ(864年以前没) - サン=リキエ修道院長、ジュミエージュ修道院長
- ユーディト - コンラディン家のラーンガウ伯ウード2世と結婚、孫は後の東フランク王コンラート1世[5]。
また、以下もコンラート1世の子(あるいはコンラート1世の弟ルドルフの子)と考えられている。
- ヴェルフ1世(2世)(876年以前没) - アルプガウ伯、リンツガウ伯[2]
脚注
[編集]- ^ a b c d Reuter 1992, p. 43.
- ^ a b Heidecker 2010, p. 199.
- ^ Reuter 1992, p. 45.
- ^ Nelson 1996, p. 42.
- ^ Jackman, pp. 47 – 67
参考文献
[編集]- Heidecker, Karl Josef (2010). The Divorce of Lothar II: Christian Marriage and Political Power in the Carolingian World. Cornell University Press199
- Nelson, Janet L. (1996). Frankish World, 750-900. Hambledon Press
- Reuter, Timothy, ed (1992). The Annals of Fulda. II. Manchester University Press
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