コリン・ベル
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
ラテン文字 | Colin Bell | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イングランド | |||||
生年月日 | 1946年2月26日 | |||||
出身地 | イングランド ダラム、ヘスレデン[1] | |||||
没年月日 | 2021年1月5日(74歳没) | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1963-1966 | ベリーFC | 82 | (25) | |||
1966-1979 | マンチェスター・シティFC | 394 | (117) | |||
1980 | サンノゼ・アースクエイクス | 5 | (0) | |||
代表歴 | ||||||
1968-1975 | イングランド | 48 | (9) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
コリン・ベル(Colin Bell MBE、1946年2月26日 - 2021年1月5日)は、イングランドの元プロサッカー選手。ニックネームはザ・キング・オブ・キパックスや、ニジンスキー(無尽蔵のスタミナから)など。マンチェスター・シティFCではセルヒオ・アグエロ、エリック・ブルック、トミー・ジョンソンに次ぐ公式戦152得点を挙げている。マンチェスター・シティの歴代最高の選手として広く認められている。エティハド・スタジアムのコリン・ベル・スタンドはベルの栄誉を讃えて名付けられた。
初期
[編集]ベリーFCでキャリアを始め、若くしてキャプテンを務めた。1966年にマンチェスター・シティFCに移籍すると、同年の1部昇格に貢献した。マンチェスター・シティと契約しようとした時、マルコム・アリソンコーチはベルに興味を示した他のクラブに対して、「ヘディングができず、パスもできず、見込みがない」と言って欺いた。アリソンの策略は成功し、ベルはシティと契約した。1968年にはシティの2度目のリーグ優勝に貢献した。 同年、ベルはイングランド代表にも選ばれ、スウェーデン戦に出場した。1969年にはオランダ戦、ブラジル戦でゴールを決め、代表でも名が知られるようになった。1970年にはリーグカップとUEFAカップウィナーズカップで優勝した。
メキシコワールドカップ
[編集]1970年、ベルはメキシコで開催される1970 FIFAワールドカップのメンバーに選ばれた。準々決勝の西ドイツ戦(2-3で敗戦)でボビー・チャールトンに代わって途中出場した。この交代はイングランドにとって試合の流れを悪くしたターニングポイントだと思われていた。しかしチャールトンは交代によって試合の流れが変わったのではなく、交代前に西ドイツが挙げた1点目の得点が流れを変えたのだと指摘した。
晩年
[編集]イングランド代表としては通算48試合に出場し、9得点を挙げた。1972年の北アイルランド戦ではキャプテンを務めた。これらの成功にもかかわらず、イングランドが1974ワールドカップ予選で敗れ本大会に出場できなかったため、世界の舞台では名声を上げられなかった。
代表で最も良いパフォーマンスを見せた試合としては、7-0で勝利したオーストラリア戦や、1975年に当時の世界王者西ドイツを下した試合が挙げられる。西ドイツ戦の攻撃陣はミック・シャノン、ケビン・キーガン、マルコム・マクドナルド、アラン・ハドソン、アラン・ボール・ジュニア、そしてベルが名を連ねた。 シャノンはこのイングランドの攻撃陣を1970年以来最も良いと考えていたが、当時のドン・レヴィー監督がこの起用を続けないのは理解できないとコメントしていた。
怪我と引退
[編集]1975年、29歳の時、ベルはリーグ・カップのマンチェスター・ユナイテッドFC戦でマーティン・バカンと接触し、右膝に深刻な怪我を負った。シティのピーター・スウェールズ会長はベルのことを「替えが利かない」と表現していた。マルコム・アリソン監督が1970年代後半に再びシティを率いたとき、ベルやサマービー、フランシス・リーに代わるタレントを見つけられず、この言葉は本当であったと分かった。 1980年、ベルは復活を期して北米サッカーリーグのサンノゼ・アースクエイクスに移籍した。ここではかつてマンチェスター・ユナイテッドでプレーしていたジョージ・ベストとチームメイトになった。移籍は成功せず、出場は5試合にとどまった。
引退後
[編集]後にベルはシティのユースチームでサッカーの仕事を続けた。1990年代にはクラブで初となるアンバサダーに就任した。2003年5月には、メイン・ロードで行われた最後の試合(対サウサンプトン)にゲストとして招かれた。2004年、ファンによる投票で、新しいスタジアム(シティ・オブ・マンチェスター・スタジアム)のスタンドの名前がコリン・ベル・スタンドとなることに決まった。 これは唯一無二の栄誉であり、他のスタンドには選手の名前は付けられていない。ただし、スタジアムまで繋がるジョー・マーサー・ウェイはシティで最も成功を収めた監督から名付けられている。2005年にはイングランドサッカー殿堂と大英帝国勲章を受賞した。同年には自伝『コリン・ベル: Reluctant Hero』を刊行した。この自伝では、母が大腸癌で39歳に亡くなったが、まだ幼すぎて覚えていないことなどが明かされた。
個人成績
[編集]所属クラブ | シーズン | リーグ | カップ | リーグカップ | 国際大会 | 合計 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
所属リーグ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
ベリー | 1963-64 | セカンドディヴィジョン | 10 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 10 | 2 | |
1964-65 | 42 | 13 | 1 | 0 | 2 | 0 | - | 45 | 3 | |||
1965-66 | 30 | 10 | 1 | 0 | 0 | 0 | - | 31 | 10 | |||
マンチェスター・シティ | 1965-66 | セカンドディヴィジョン | 11 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 11 | 4 | |
1966-67 | ファーストディヴィジョン | 42 | 12 | 6 | 1 | 2 | 1 | - | 50 | 14 | ||
1967-68 | 35 | 14 | 4 | 2 | 4 | 1 | - | 43 | 17 | |||
1968-69 | 39 | 14 | 5 | 0 | 3 | 1 | 2 | 0 | 49 | 15 | ||
1969-70 | 31 | 11 | 2 | 0 | 6 | 5 | 9 | 5 | 48 | 21 | ||
1970–71 | 34 | 13 | 3 | 4 | 1 | 7 | 2 | 45 | 19 | |||
1971–72 | 33 | 12 | 2 | 0 | 1 | 2 | - | 36 | 14 | |||
1972–73 | 39 | 7 | 5 | 2 | 2 | 1 | 2 | 0 | 48 | 10 | ||
1973–74 | 41 | 7 | 2 | 0 | 11 | 3 | - | 54 | 10 | |||
1974–75 | 42 | 15 | 1 | 0 | 2 | 3 | - | 45 | 18 | |||
1975–76 | 20 | 6 | 0 | 0 | 5 | 1 | - | 25 | 7 | |||
1976–77 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||
1977–78 | 17 | 2 | 2 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 21 | 2 | ||
1978–79 | 10 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 4 | 1 | 157 | 1 | ||
サンノゼ・アースクエイクス | 1980 | 北米サッカーリーグ | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 5 | 0 | |
キャリア通算成績 | 481 | 142 | 36 | 9 | 42 | 18 | 24 | 8 | 583 | 177 |
タイトル
[編集]- マンチェスター・シティ
- フットボールリーグ・ファーストディヴィジョン: 1967-68
- フットボールリーグ・セカンドディヴィジョン: 1965-66
- FAカップ: 1968-69
- フットボールリーグカップ: 1968-69
- UEFAカップウィナーズカップ: 1969-70
脚注
[編集]- ^ Colin Bell: Reluctant Hero, p. 19 & p. 20.