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コリントの信徒への手紙一4章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

コリントの信徒への手紙一4章(こりんとのしんとへのてがみいち4しょう)は、新約聖書のコリントの信徒への手紙一の中の一章。1-5節は神の秘義の管理人について、6-7節は持っているものはすべて受けたものであることについて、8-13節は「強い」コリントの信徒たちと「弱い」パウロについて、14-16節はパウロがコリントの信徒たちを「愛する子ども」として諭すことについて、17-19節は傲慢なコリントの信徒たちへの警告、20-21節は神の国が持つ力についてである。[1]以下の注解では書名や人名、地名は口語訳に従う。

注解

[編集]
このようなわけだから、人はわたしたちを、キリストに仕える者、神の奥義を管理している者と見るがよい。 — コリント人への第一の手紙4章1節、『口語訳聖書』より引用。

田川は「このようなわけだから」に関し、コリント人への第一の手紙3章23節においてすべては神のものであり、神の前では誰も誇ることができないと表明した直後に自分が神の秘密の管財人であると主張することは論理的に整合しないとして批判する。「人は」というのは人間一般のことではなくコリントの信徒たちを指していることは続く2-5節の内容からも明らかである。パウロは神の代行者であると思い上がっており、パウロのことをコリントの信徒たちが批判することは許されないという傲慢な主張であるとする。[2]

そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである。 — コリント人への第一の手紙3章23節、『口語訳聖書』より引用。

「仕える者」と訳されているのはυπηρέτας(hypēretas)であり、υπηρέτης(hupéretés)の男性複数対格である。υπηρέτης(hupéretés)はservant使用人、helper助手などの意味がある。[3][4]υπηρέτης(hupéretés)は聖書外では例えばギリシャ神話においてヘルメスがゼウスの力と権威を背後に持つ使者であるという意味合いを持つ。七十人訳聖書では箴言14章35節において命令を忠実に遂行することがυπηρέτης(hupéretés)にとって必要であることが表現されている。

賢いしもべは王の恵みをうけ、恥をきたらす者はその怒りにあう。 — 箴言14章35節、『口語訳聖書』より引用。

新約聖書においてはイエス・キリストが会堂で礼拝する場面において会堂における助手としての「係りの者」を表す言葉として使われている。[5]

それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。

すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、

「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、

主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。

イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。 — ルカによる福音書4章16-20節、『口語訳聖書』より引用。

Morris,Robertson,Ciampa,Rosner,Conzelmann,Fee,Fitzmyer,Taylor,榊原はコリント人への第一の手紙3章5節でυπηρέτης(hupéretés)の類義語であり「仕え手」を意味するδιάκονος(diakonos)の男性複数主格であるδιάκονοι(diakonoi)が使われていることを指摘し、3章5節と関連付けて「このようなわけだから」を読むべきであるとする。[6][7][8][9][10][11][12][13]

アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。 — コリント人への第一の手紙3章5節、『口語訳聖書』より引用。

3章5節で使われているδιάκονος(diakonos)は給仕をするしもべを表す。ルカによる福音書22章27節では動詞形で使われている。

食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。 — ルカによる福音書22章27節、『口語訳聖書』より引用。

υπηρέτης(hupéretés)は船のオールを動かす奴隷のことである。これは過酷な肉体労働と主人のために徹底的に働く隷属をも示している。使徒行伝13章5節では「助け手」という意味でマルコと呼ばれるヨハネを連れていた記述がある。

そしてサラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言を宣べはじめた。彼らはヨハネを助け手として連れていた。 — 使徒行伝13章5節、『口語訳聖書』より引用。

ルカによる福音書1章1-2節においても使われており、イエスの直弟子、使徒たちを表す言葉としても使われている。ここからキリスト教会における教職者もυπηρέτης(hupéretés)であると考えることができる。

わたしたちの間に成就された出来事を、最初から親しく見た人々であって、 御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、 — ルカによる福音書1章1-2節、『口語訳聖書』より引用。

この節ではそのような主人に仕える側面に加えて他の奴隷に対して上の立場に立てられている側面がある。ここで管理している「奥義」とはキリストの十字架である。[13]カルヴァンはこの「奥義」が聖礼典と関連付けて考えられるべきであり、御言葉を司る人物は聖礼典の管理者ともなるとしている。[14]

この場合、管理者に要求されているのは、忠実であることである。 — コリント人への第一の手紙4章2節、『口語訳聖書』より引用。

口語訳で「要求されている」と訳されているのはζητεῖται(zēteitai)であり、これはζητέω(zéteó)の現在直説法受動態3人称単数である。テクストゥス・レセプトゥス、ウェストコット・ホート、ネストレ・アーラントのいずれもζητεῖται(zēteitai)を採用しており、すべての英訳聖書がこれを採用している。この読みはバチカン写本等によって支持されているが、Comfortはパピルスやシナイ写本、アレクサンドリア写本等によってより強力に支持されており、またより難しい異読である現在命令法能動態2人称複数のζητειτε(zéteite)の方がオリジナルの本文である可能性が高いとする。続く3節でもパウロの働きがコリントの信徒たちによって判断されていることが示されており、直訳すると「管理者に忠実であることをあなたがたは要求しなさい」となるζητειτε(zéteite)と読むべきであると考えられる。そのように考えるとコリントの信徒たちはパウロが神の奥義の忠実な管理者であることを認めるはずであると主張されていると読める。[15] 「忠実である」と訳されているのはπιστός(pistos)である。to be trusted、信頼できるという意味はfaithful、忠実であることや信仰深いなどの意味がある。[16][17]πιστός(pistos)は新約聖書において67回用いられており、そのうちの16回が「信仰深い」という意味で使われている。ヨハネによる福音書20章27節においてはそのような意味で使われている。

それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。 — ヨハネによる福音書20章27節、『口語訳聖書』より引用。

パウロ自身については、コリント人への第一の手紙7章25節において「信任を受けている者」としてπιστός(pistos)を使っている。ここでは忠実であることや信頼できるという意味だけではなく代理者としての意味をも示している。

おとめのことについては、わたしは主の命令を受けてはいないが、主のあわれみにより信任を受けている者として、意見を述べよう。 — コリント人への第一の手紙7章25節、『口語訳聖書』より引用。

ヨハネの黙示録21章5節においては御言葉が信頼できるものであると表明されている。[18]

すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。 — ヨハネの黙示録21章5節、『口語訳聖書』より引用。

コリントの信徒たちは教師たちを知恵、雄弁さなどの個人的な基準で評価していた。しかし神の裁きの根拠はそれらの事柄ではなく、忠実であることである。コリント人への第一の手紙1章9節やコリント人への第一の手紙10章13節で神自身がπιστός(pistos)、つまり忠実な方であることが示されており、神の基本的な特質は信頼性があることなのである。奉仕者もまた神への忠実さが求められているのである。[8]

神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。 — コリント人への第一の手紙1章9節、『口語訳聖書』より引用。
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。 — コリント人への第一の手紙10章13節、『口語訳聖書』より引用。
わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。 — コリント人への第一の手紙4章3節、『口語訳聖書』より引用。

口語訳で「さばかれ」「さばく」と訳されているのはἀνακρίνω(anakrinó)である。この言葉はexamine、調べるという意味やquestion、質問する、judge、判断するなどの意味がある。コリント人への第一の手紙2章15節では判断するという意味で使われている。[19][20]

しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。 — コリント人への第一の手紙2章15節、『口語訳聖書』より引用。

ルカにおいては尋問する、裁判で取り調べるといった用例で使われている。

「おまえたちは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきたので、おまえたちの面前でしらべたが、訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。 — ルカによる福音書23章14節、『口語訳聖書』より引用。

聖書を調べるという意味でも使われることがある。[21]

ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。 — 使徒行伝17章11節、『口語訳聖書』より引用。

「人間の裁判」と訳されているἀνθρωπίνης ἡμέρας(anthrōpinēs hēmeras)は直訳すると「人間の日」であり、法廷が定めた裁判の日のことを指す。また、「なんら意に介しない」はεἰς ἐλάχιστόν ἐστιν(eis elachistos estin)であり、直訳は「最も小さなことにしかならない」である。 [2]榊原はパウロがパウロ批判に対して反撃を行っているため、「なんら」意に介しないとまでは言えない側面もあるとする。しかし「最も小さいことにしかならない」と言っているようにパウロ批判を小さなものにしていっているとは言える。それは裁く者たちの赦しにもつながっていくのである。[13]

わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。 — コリント人への第一の手紙4章4節、『口語訳聖書』より引用。

「わたしは自ら省みて、なんらやましいことはない」と口語訳で訳されているのはοὐδὲν γὰρ ἐμαυτῷ σύνοιδα(ouden gar emautō synoida)であり、直訳は「私は自分自身に対して何も知らない」である。New Revised Standard Versionも同様に”I am not aware of anything against myself”と訳している。σύνοιδα(synoida)の名詞形はσυνείδησις(suneidésis)であり、良心という意味を持つ。New Jerusalem Bibleでは”my concience does not reproach me”となっており、つまり私の良心は私を責めることはないと解釈することもできるのである。人間の判断は肯定的であれ否定的であれ、パウロ自身であれ他人のものであれ、不完全なものでしかない。この節は人間の評判に対してパウロが厚かましい態度を取っているといったことではなく、δεδικαίωμαι(dedikaiōmai)が完了直説法受動態一人称単数であることからパウロが義とされるかどうかはまだ係争中であることが表現されている。義認はあくまでも終末論的なものなのである。[22] ヴェントラントはシュラッターの「自己審判は自己救済と同様あり得ない」に依拠して来るべき裁き、あるいは救済は自分でなすことはできないということであるとする。人が義を受けることができるのは神の恵みある判決のみであることがローマ人への手紙3章21-26節にも表れている。[23]

3:21しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。

3:22それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。

3:23すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、

3:24彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。

3:25神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、

3:26それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。 — ローマ人への手紙3章21-26節、『口語訳聖書』より引用。

ハーンはこのローマ人への手紙の箇所を義認の核心的な箇所であるとする。21-23節はパウロ自身に由来し、24節は論争されているが25-26節aは(「信仰をもって」はパウロ由来の可能性もあるが)パウロが受け取った伝承であると考えられる。「見のがしておられたが」は「赦しておられた」の意味であり、イエス・キリストの贖いの出来事によって「神の時」に赦しが与えられたのである。その義と認められることの基礎は洗礼の出来事である。洗礼はキリストの血によって与えられた贖いが前提となる。そうして「神の義を示す」(実証する)ことが行われるのである。ルター及びブルトマンはここに義認の法廷的性格を見る。信仰によって人間は受動的に神の義を受けることができるのである。シュラッターは神の義を神の属性であるとし、人間を神との正しい関係に導く存在と考える。[24]

だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。 — コリント人への第一の手紙4章5節、『口語訳聖書』より引用。

口語訳で「さばいては」と訳されているのはκρίνω(krinó)である。3節及び4節の「さばく」はἀνακρίνω(anakrinó)である。ここでは接頭語が取り除かれている。接頭語ανα(ana)は「間」という意味がある。[25]田川は5節において接頭語が取り除かれているのは、基本的に3,4節と5節の「さばく」は同じ意味ではあるもののより裁判用語としての裁く意味を強調していると考えられるとする。[2] ヘイズは3章においてパウロが仕える者のたとえを使い、4章において再びそれを用いているが、3章では神に仕える者たちはともに一つの目標に仕えるということであったのに対し、4章においては仕える者は主人に対して忠実であるかどうかということを問題にしているとする。力のある奴隷は現代では土木作業における親方やホワイトハウスの職員の長に近いイメージで考えることができる。そのような奴隷、つまり管理者はキリストの十字架という隠された知恵を告げ知らせることが使命なのである。その重要性の前には再臨のキリストの裁きを待たずに先走って裁くコリントの信徒たちの判断は問題にならないのである。セネカは自己評価の重要性を語ったが、自己評価さえパウロにとっては重要なことではない。神の裁きについてイエス・キリストが語っている箇所としてルカによる福音書12章42-44節が挙げられる。[26]

そこで主が言われた、「主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、いったいだれであろう。

主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。

よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう。 — ルカによる福音書12章42-44節、『口語訳聖書』より引用。

「ほまれ」と口語訳で訳されているのはἔπαινος(epainos)である。ἔπαινος(epainos)の基本的な意味はpraise、賞賛という意味である。[27][28]「暗い中に隠れていること」「心の中で企てられていること」は神からほまれを受けるような良い志のことである。コリントの信徒たちは使徒パウロの行動の表面しか見ておらず、その動機まで見ることができていなかった。[13] Orr,Waltherはパウロが受けてきたこの世におけμετασχηματίζω(metaschématizó)る報いは侮辱、迫害、中傷であった。それらのものを受けながらパウロは暴力や復讐を用いるのではなく悪を取り除く働きをしたのであるとする。それはキリストに連なる働き方であり、その報酬が神からのほまれなのである。[29]

兄弟たちよ。これらのことをわたし自身とアポロとに当てはめて言って聞かせたが、それはあなたがたが、わたしたちを例にとって、「しるされている定めを越えない」ことを学び、ひとりの人をあがめ、ほかの人を見さげて高ぶることのないためである。 — コリント人への第一の手紙4章6節、『口語訳聖書』より引用。

口語訳で「当てはめて言って聞かせた」と訳されているのはμετεσχημάτισα(meteschēmatisa)であり、μετασχηματίζω(metaschématizó)のアオリスト直説法能動態一人称単数である。μετασχηματίζω(metaschématizó)はchange the form of a person or thing、人や物事の形を変えるという意味が第一義として挙げられる。[30][31]田川は口語訳の「言って聞かせた」は原文にないとして批判し、「形を変えた」が直訳であるとしている。多くの学者によって「例にとって」と訳しているが、μετασχηματίζω(metaschématizó)という動詞とは別にたとえるという意味の動詞が存在しており、たとえるという意味では使われない言葉である。この言葉を使った意義としてパウロとアポロの関係について語っていたが、本題はコリントの信徒たちの姿勢について論じることであったとする。[2]

榊原は「わたし自身とアポロ」の前の部分で「あなたがたのゆえに」という一句が原文には存在しているが口語訳では訳出されていないと指摘する。榊原も田川と同様にパウロとアポロを話題にしたのは婉曲にコリントの信徒たちについての語りであったとし、その上でその婉曲表現は教会事情へのパウロの配慮であったとする。公衆の面前で恥をかかせるようなことをするのではなく、遠回しで上品な言い方を採用する工夫をなし、コリントの信徒たちを正しい道へと引き戻すことをしようとしているのである。[13]

「しるされている定めを越えない」の「定め」は原文にはなく、田川は直訳は「書かれてあること以上ではない」であるとしている。[2]この「書かれてあること」の具体的内容として1章や3章で具体的に引用された旧約聖書のテクスト、旧約聖書全体を漠然と指す言葉、コリントの信徒たちとパウロが共通して知っていた格言であるなどの可能性がある。[10]ヘイズは多くの注解者によって標語や格言であったが、それがどのような意味を持つかは論争されてきたものの、その意味することは明らかに旧約聖書であるとする。「書かれているもの」という言葉をパウロが用いる時、そこでは旧約聖書引用がなされている。コリント人への第一の手紙1章19節、31節、2章9節、16節、3章19節、20節の6箇所においてそれが見られる。

すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。 — コリント人への第一の手紙1章19節、『口語訳聖書』より引用。
それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。 — コリント人への第一の手紙1章31節、『口語訳聖書』より引用。
しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。 — コリント人への第一の手紙2章9節、『口語訳聖書』より引用。
「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。 — コリント人への第一の手紙2章16節、『口語訳聖書』より引用。
なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。「神は、知者たちをその悪知恵によって捕える」と書いてあり、 更にまた、「主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである」と書いてある。 — コリント人への第一の手紙3章19-20節、『口語訳聖書』より引用。

それも引用句の中では人間には誇るものが何もないことが示されており、ここでパウロが「高ぶることのないためである」と書いていることと合致するのである。[26]

小川はアポロ主義やペテロ主義といったことを否定しているだけではなく、パウロ主義をも否定しているとする。現代でもルター主義やカルヴァン主義、バルト主義といったものがあるが、そうしたものはこの箇所におけるパウロの主張に反するのである。[32]

八木誠一はパウロがコリント教会の信徒の富、栄え、強さと対比して自分の弱さと低さを語るのはコリントの信徒たちが高ぶることのないため、つまり弱さはエゴの誇りを無にするものであり、強さは虚しい高ぶりを引き起こすものとして否定されるとする。青野はこれに加えてパウロはただ弱さを誇っているのであり、本当に誇りとするべきものはイエス・キリストの十字架でしかないことを語っているとする。そのことがガラテヤ人への手紙6章14節に表れている。[33]

しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。 — ガラテヤ人への手紙6章14節、『口語訳聖書』より引用。
いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。 — コリント人への第一の手紙4章7節、『口語訳聖書』より引用。

口語訳で「偉くしている」と訳されているのはδιακρίνει(diakrinei)であり、διακρίνω(diakrinó)の現在直説法能動態三人称単数である。διακρίνω(diakrinó)は区別する、疑う、決定するなどの意味がある。[34][35]使徒行伝15章9節では差別という意味で使われている。

また、その信仰によって彼らの心をきよめ、われわれと彼らとの間に、なんの分けへだてもなさらなかった。 — 使徒行伝15章9節、『口語訳聖書』より引用。

パウロにおいては他の箇所では「わきまえる」という意味でも使っている。

しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。 — コリント人への第一の手紙11章31節、『口語訳聖書』より引用。

「疑う」という意味で使われる場合は神学的に信仰と対比させる意味で用いられる。[36]

よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。 — マルコによる福音書11章23節、『口語訳聖書』より引用。

田川はある者を他の者と区別するということは特別に優れた者とみなすということにもなるので、「特別視する」と訳している。3節及び4節でἀνακρίνω(anakrinó)を使い、また5節でκρίνω(krinó)を使った上で7節でδιακρίνω(diakrinó)を使うことで語呂合わせを行っているとも指摘している。[2] 青野はこの箇所はマタイによる福音書20章1-16節「ぶどう園の日雇い労働者のたとえ」と関連付けて読むべきだとしている。青野は荒井献に依拠してこのイエスが語ったたとえはファリサイ派が律法を基準として人間をランク付けする合法主義に対する批判であることを指摘した上でどのような立場でこのたとえを聞くのかによってその受け取り方は大きく変化すると議論する。1時間しか働かなかったにもかかわらず1日分の賃金を与えられた側に立ってこのたとえを聞けばその過分な扱いにただただ感謝する他ない。一方で長時間労働した者たちの不平不満に自らを同一化して聞けば当然さらなる賃金が与えられなければ気が済まないことになる。しかしここではすべての者は1時間しか働かなかった者と同じではないかということを問いかけている。それはパウロの「受けたものでないものがあるか」という言葉に表れているのである。[37]

20:1天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。 20:2彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。 20:3それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。 20:4そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。 20:5そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。 20:6五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。 20:7彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。 20:8さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。 20:9そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。 20:10ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。 20:11もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして 20:12言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。 20:13そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。 20:14自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。 20:15自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。 20:16このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。 — マタイによる福音書20章1-16節、『口語訳聖書』より引用。
あなたがたは、すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて、王になっているのだ。ああ、王になっていてくれたらと思う。そうであったなら、わたしたちも、あなたがたと共に王になれたであろう。 — コリント人への第一の手紙4章8節、『口語訳聖書』より引用。

「王になっている」はギリシャ語ではβασιλεύω(basileuó)である。βασιλεύω(basileuó)は「王である」という意味がある。[38][39]田川もこの言葉は「王となる」というよりは「王である」という意味であるとし、その上で「王である」ということは政治的支配をするような王というものが考えられているのではなく宗教者の到達しうる最高の状態として「王になる」と表現している。[2] Robertsonはこの「満腹している」「王になっている」「富み栄えている」をパウロによる強烈な皮肉と考える。その上でこれはルカによる福音書22章29-30節にある神の王国と関連付けて読むべきであり、コリントの信徒たちは自分たちだけの千年王国を手に入れたと考えたのではないかとする。しかしこれはあくまでも皮肉であり、パウロはコリントの信徒たちは千年王国を手にしてなどいないと主張しているのである。[7]

22:29それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、 22:30わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。 — ルカによる福音書22章29-30節、『口語訳聖書』より引用。

Morrisはパウロの皮肉はパウロたちが耐えなければならなかった試練、低さとコリントの信徒たちの気楽さを対比しているとする。「満腹している」と訳されているギリシャ語は使徒行伝27章38節にあるように食べ物により満腹するという意味でも使われる言葉である。

22:29それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、 22:30わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。 — ルカによる福音書22章29-30節、『口語訳聖書』より引用。
27:38みんなの者は、じゅうぶんに食事をした後、穀物を海に投げすてて舟を軽くした。 — 使徒行伝27章38節、『口語訳聖書』より引用。

この箇所においてはコリントの信徒たちが精神的な食べ物をすべて手に入れている状態のことを指しており、キリスト教信仰により成長するのではなくストア派のような自己完結に陥っていた。その結果「わたしたちを差しおいて」つまり「わたしたちと一緒にならずに」「王になっている」と語るのである。 ローマ人への手紙8章17節においては真の神の相続人であればキリストと共に苦しみ、キリストと共に栄光を受けるはずだとパウロは語っている。[6]

8:17もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。 — ローマ人への手紙8章17節、『口語訳聖書』より引用。

Conzelmannは犬儒派やストア派において賢者こそが「王」であるとされることを指摘し、黙示信仰やグノーシス主義にそれは受け継がれる。コリントの信徒たちは既に昇天したキリスト、つまり霊にあずかっていると考えていたが、パウロはそれは終末論的な出来事であるとする。現在の状態と「目標」の間にはキリストの再臨と最後の審判が存在するのである。[9]

わたしはこう考える。神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。 — コリント人への第一の手紙4章9節、『口語訳聖書』より引用。

「わたしはこう考える」と口語訳で訳されているのはδοκέω(dokeó)である。δοκέω(dokeó)は考える、思う、予測するなどの意味がある。[40][41]マタイによる福音書6章7節においては「思い込む」の意味でも使われている。

また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。 — マタイによる福音書6章7節、『口語訳聖書』より引用。

マルコによる福音書10章42節では「評判の高い」という意味でも使われている。[42]

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。 — マルコによる福音書10章42節、『口語訳聖書』より引用。

田川は口語訳や新共同訳聖書の「死刑囚」では分かりにくいと批判し、「死に定められた者」と訳した。その上でConzelmannに依拠してストア派は哲学者は競技場の競技者(見世物)にたとえられたことを指摘し、ローマ時代には剣士が競技に負けて殺される場面を観客は楽しんだ歴史的事実を認識すべきだとする。こうして見世物にされて殺される剣士たちにパウロは自分たちをたとえた。パウロのお陰でコリントの信徒たちはクリスチャンになれたくせにパウロに文句を言う、けしからんというメッセージであり、パウロは自分の状況を誇張して語っているとする。[2] Fitzmyerは使徒とは支配するために立てられたのではなく「死の印」を付けられた存在となると指摘する。使徒は神によってキリストの十字架に献身させられ、十字架につけられたキリストと同じ状況に置かれた剣闘士のような状況と見ている。それは世界、天使、人々に見世物とされたという言葉と合致する。使徒たちは剣闘士のようにアリーナで戦うが、それは強い存在としてではなく弱い存在として描いているのである。[11]それは窮地であり、大衆の娯楽の犠牲でさえある。[23]

わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられている。 — コリント人への第一の手紙4章10節、『口語訳聖書』より引用。

「尊ばれ」と口語訳で訳されているのはἔνδοξοι(endoxoi)であり、ἔνδοξος(endoxos)の男性複数主格である。ἔνδοξος(endoxos)は名誉のある、栄光の、卓越したといった意味がある。[43]ルカによる福音書13章17節ではイエスの行いがすばらしいという意味で使われている。[44]

こう言われたので、イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った。そして群衆はこぞって、イエスがなされたすべてのすばらしいみわざを見て喜んだ。 — ルカによる福音書13章17節、『口語訳聖書』より引用。

「卑しめられている」と口語訳で訳されているのはἄτιμοι(atimoi)であり、ἄτιμος(atimos)の男性複数主格である。不名誉な、というのが主な意味である。[45]マルコによる福音書6章4節においてはキリストの言葉で預言者が敬われないという意味で使われている。[46]

イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。 — マルコによる福音書6章4節、『口語訳聖書』より引用。

田川は愚か、賢い、弱い、強い、尊ばれ、卑しめられ、といった言葉がすべて動詞では表現されていないため口語訳のように「となっている」と現在形で訳すか過去のこととして「となった」と訳すべきかは原文からは明らかではなく、補って読む必要があることを指摘する。そのうえで田川は11節の「今の今まで」という言葉と合致し、かつここで語っている関係は過去のコリントの信徒たちとパウロとの関わり方のことであるから、過去形で「となった」と訳すべきであるとする。[2]

青野はパウロは「わたしたちは弱い」と言い表すことによってコリントの信徒への手紙一2章1-3節における「十字架につけられてしまっているキリスト」と同様にパウロが弱くかつ恐れ、ひどく不安であった生のあり方と重なるとする。[47]

Ciampa,Rosnerはパウロがコリントの信徒たちが強く、賢く、尊ばれていると語っていることは皮肉であるとした上でパウロが弱く、愚かで卑しめられているのはキリストのためだとする。逆にコリントの信徒たちが自分たちは強く、賢く、尊ばれていると主張することは神の呼び声から自分たちを締め出す行為なのである。[8]

今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、 — コリント人への第一の手紙4章11節、『口語訳聖書』より引用。

Ciampa,Rosnerは8節でパウロがコリントの信徒たちは「すでに」満ち足りて、富み、満足しているという言葉と対応させてこの箇所の「今の今まで」を記述しているとする。パウロにとっては現在とは栄光ではなく苦しみの時なのである。[8]

Feeはパウロは11-13節における苦難のリストを提示することで、皮肉ではなく直接的に使徒職の不名誉を詳細に説明しているとする。このリストはキリストの福音の宣教師としてのパウロの状況と、コリントにおける闘争に対応する。このリストの目的はあくまでもコリントの信徒たちを教育するためのものであり、コリントの信徒たちはこのようなパウロの姿に倣うべきなのである。[10]

ヘイズはここで列挙している苦難を克服すべき不幸であるとか、試練とは考えておらず、キリストの苦難に一致するからこそ使徒職の真正さを示すとする。飢え、渇き、着るものがない、泊まるところがないというのは項目としてはありふれているが、キリストが経験してきた苦難と一致するという点においてそれは特別で重要なものなのである。このあり方はコリントの信徒たちがすでに満足し、大金持ちになっているあり方とは対極のものである。パウロがこのような状況に置かれていたのはコリントの信徒たちの援助を断ったからである。それはコリントの信徒たちにとっては恥ずべきことであった。[26]

Robertsonは「裸にされ」という言葉は一般的なギリシャ語では軽装で進むという意味があり、ヤコブの手紙2章15節でも同じ言葉が使われている。

ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、 — ヤコブの手紙2章15節、『口語訳聖書』より引用。

「打たれ」は拳で殴られるといった意味で、口語的であるとする。マルコによる福音書14章65節ではイエスが殴られる場面で使われている。[7]

そして、ある者はイエスにつばきをかけ、目隠しをし、こぶしでたたいて、「言いあててみよ」と言いはじめた。また下役どもはイエスを引きとって、手のひらでたたいた。 — マルコによる福音書14章65節、『口語訳聖書』より引用。
苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、 — コリント人への第一の手紙4章12節、『口語訳聖書』より引用。

「苦労して」と口語訳で訳されているのはκοπιῶμεν(kopiōmen)であり、κοπιάω(kopiaó)の現在直説法能動態一人称複数である。κοπιάω(kopiaó)はハードワークする、疲れる、もがくといった意味がある。[48][49]ヨハネによる福音書4章6節では同じ言葉が「疲れた」という意味で使われている。[50]

そこにヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れを覚えて、そのまま、この井戸のそばにすわっておられた。時は昼の十二時ごろであった。 — ヨハネによる福音書4章6節、『口語訳聖書』より引用。

パウロが天幕づくりの仕事をしていたことは使徒行伝18章3節で描かれている。[11]

パウロは彼らのところに行ったが、互に同業であったので、その家に住み込んで、一緒に仕事をした。天幕造りがその職業であった。 — 使徒行伝18章3節、『口語訳聖書』より引用。

「苦労して自分の手で働いている」について、田川はパウロが裕福な家庭で生まれ育ったことを示唆するとする。通常の庶民にとって苦労して働くことは当然のことであり、それをわざわざ強調し、宣教の傍ら働いていることを特別視しているという。[2] 榊原は伝道の苦労に加えてパウロが稼ぐために働くことの苦労をも背負い、二重の労苦をしていることを表しているとする。そのうえではずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍ぶという言葉はパウロが持つ人間関係における道徳的な面が強調されている。イエスの山上の垂訓でも同様の教えが述べられている。[13]

パウロは彼らのところに行ったが、互に同業であったので、その家に住み込んで、一緒に仕事をした。天幕造りがその職業であった。 — 使徒行伝18章3節、『口語訳聖書』より引用。
5:39しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。 5:40あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。 5:41もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。 5:42求める者には与え、借りようとする者を断るな。 5:43『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 5:44しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 5:45こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。 5:46あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。 5:47兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。 5:48それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。 — マタイによる福音書5章39-48節、『口語訳聖書』より引用。
ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。 — コリント人への第一の手紙4章13節、『口語訳聖書』より引用。

「優しい言葉をかけている」と口語訳で訳されているのはπαρακαλοῦμεν(parakaloumen)であり、παρακαλέω(parakaleó)の現在直説法能動態一人称複数である。παρακαλέω(parakaleó)は呼びかけるというのが基本的な意味である。[51][52]田川はののしられるという言葉に対置されている言葉であるため、「慰める」などと訳す場合が多いが、παρακαλέω(parakaleó)にはそのような意味はなく、あくまでもののしられても真実を呼びかけ続けたという趣旨の事を語っており、口語訳の「優しい言葉をかけている」は原文とは大きく異なるとして批判している。[2]

Thiseltonはπαρακαλέω(parakaleó)は嘆願する(King James Version)、親切に話す(New Revised Standard Version)、調和を図ることを試みる(Revised English Bible)など多様に翻訳され、また「呼びかける」という基本的な意味を採用するとしても招く、助けを求めて呼ぶ、訴える、証人として呼ぶなどやはり多様な意味合いを持ちうるとする。Thiselton自身は道徳的な勇気をもって訴え、コリントの信徒たちの誤解を解いたとする。[22]

「人間のくず」と口語訳で訳されている部分を田川は「あらゆるものの塵芥」と訳している。「人間の」に対応するのは「すべてのもの」を意味するπάντων(pantōn)であり、「この世」つまり世界と対応しているものとしてこの語を用いているため、翻訳するなら口語訳の「人間のくず」より新共同訳聖書の「すべてのものの滓」の方が原文に近いとする。[2]

Ciampa,Rosnerはパウロたち使徒が「生贄」「この世界のための供え物」と解釈される場合があるが、パウロたちは「死刑を宣告される」とは言っているものの、実際にこの時点で死刑になっているわけではない。これはもっと一般的かつ徹底的な侮辱として受け取る方が自然である。パウロはコリントの信徒たちの一部についてコリント人への第一の手紙1章26-27節においてコリントの信徒たちを「愚かな者」「弱い」と呼んだが、パウロ自身をパウロはそれよりももっと低い存在として見ていると考えることができる。[8]

1:26兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。 1:27それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、 — コリント人への第一の手紙1章26-27節、『口語訳聖書』より引用。
わたしがこのようなことを書くのは、あなたがたをはずかしめるためではなく、むしろ、わたしの愛児としてさとすためである。 — コリント人への第一の手紙4章14節、『口語訳聖書』より引用。

「はずかしめるため」と口語訳で訳されているのはἐντρέπων(entrepōn)であり、ἐντρέπω(entrepó)の現在分詞能動態男性単数主格である。ἐντρέπω(entrepó)は「そちらに向く」「敬意を表する」という意味で使われる場合が多く、「はずかしめる」という意味で使われる場合は少ない。数少ない例として他にテトスへの手紙2章8節が挙げられる。[53]

非難のない健全な言葉を用いなさい。そうすれば、反対者も、わたしたちについてなんの悪口も言えなくなり、自ら恥じいるであろう。 — テトスへの手紙2章8節、『口語訳聖書』より引用。

他にも七十人訳聖書でイザヤ書44章11節で同様の意味で使われている。[54]

見よ、その仲間は皆恥を受ける。その細工人らは人間にすぎない。彼らが皆集まって立つとき、恐れて共に恥じる。 — イザヤ書44章11節、『口語訳聖書』より引用。

田川はギリシャ語の通常の語義においてἐντρέπω(entrepó)は敬意を表するという意味であり、その意味に取るべきであると主張する。自分のことを「ごみ」と言って謙遜するのはコリントの信徒たちに敬意を表するためではないという皮肉であるとするのである。マルコによる福音書12章6節でもそのような用法で同じギリシャ語が使われている。[2]

ここに、もうひとりの者がいた。それは彼の愛子であった。自分の子は敬ってくれるだろうと思って、最後に彼をつかわした。 — マルコによる福音書12章6節、『口語訳聖書』より引用。

人が他者を批判、叱責する際にはひそかな満足感が軽蔑と混ざりあう場合がある。パウロはコリントの信徒たちを整え、父親のような愛情を持ち、愛児を屈服させるのではなく必要な援助を与えることに専念した。この父親的愛情はパウロとコリントの信徒たちの間における特別なものであった。[55] νουθετέω(noutheteō)は非行に対する非難を指す言葉で、諭すと訳される場合が多い。それはこの節で示されているように、愛の中での批判である。類義語の名詞がエペソ人への手紙6章4節で使われている。[6]

父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。 — エペソ人への手紙6章4節、『口語訳聖書』より引用。
たといあなたがたに、キリストにある養育掛が一万人あったとしても、父が多くあるのではない。キリスト・イエスにあって、福音によりあなたがたを生んだのは、わたしなのである。 — コリント人への第一の手紙4章15節、『口語訳聖書』より引用。

μυρίους(myrious)はμυρίος(méros)の男性複数対格である。μυρίος(méros)は口語訳、新共同訳聖書、新改訳2017では「一万人」と訳されている。一万という意味もこのギリシャ語にはあるが、第一義としてはcountless、「無数の」という意味が挙げられている。[56]田川はこのことから、前後関係として明らかに一万という意味に取れる場合以外は通常「無数」と訳すべきであると主張している。また、自分をコリントの信徒たちの父親のように言うことはコリント人への第一の手紙3章6節で表明したことと矛盾しており、傲慢な主張であると批判している。[2]

わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。 — コリント人への第一の手紙3章6節、『口語訳聖書』より引用。

「養育掛」と訳されているのはπαιδαγωγοὺς(paidagōgous)であり、παιδαγωγός(paidagógos)の男性複数対格である。養育掛は奴隷の中で子どもを学校へ連れて行くことやしつけや朗読など様々な事柄を教え、身の回りの世話をする役割を持つ者であった。養育掛の役割が重要であるとしても、その重さは実の父親とは比べ物にならないものであった。[13][57][22][7] ヘイズはパウロがコリントの信徒たちの「父」であると主張することは、共同体の創設者であることの表現として考えられるとする。コリントの信徒たちに最初に福音をもたらしたのはパウロに他ならず、パウロによってコリントの共同体は存在し得たのである。この特別な関係を表現するためにパウロは「養育掛」と「父」という表現を対比させている。「養育掛」の用法としては他にガラテヤ人への手紙3章24節が挙げられる。[26]

このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。 — ガラテヤ人への手紙3章24節、『口語訳聖書』より引用。
そこで、あなたがたに勧める。わたしにならう者となりなさい。 — コリント人への第一の手紙4章16節、『口語訳聖書』より引用。

後代の写本では「わたしにならう者となりなさい」の後に「私がキリストにならうように」が追加されている。コリント人への第一の手紙11章1節にもそのような記述があり、それに合わせて加筆されたと考えられる。[15]

わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。 — コリント人への第一の手紙11章1節、『口語訳聖書』より引用。

田川は「私を真似る者となりなさい」と訳し、これがテサロニケ人への第一の手紙1章6節にも出てくると指摘した上でパウロが自分を絶対化し、パウロ教的な教えをしている傲慢な主張であるとする。[2]

そしてあなたがたは、多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり、 — テサロニケ人への第一の手紙1章6節、『口語訳聖書』より引用。

小川は田川の上記の主張を引用した上で「すべてがあながたがのものである」とコリント人への第一の手紙3章の末尾に書いているため、パウロ主義をパウロ自身が取っているわけではないと指摘する。パウロにならうということはパウロの絶対化のことではなく、パウロ主義の否定、つまり神中心主義にならう者となるように勧めていると読むことができるのである。[32]

3:21だから、だれも人間を誇ってはいけない。すべては、あなたがたのものなのである。 3:22パウロも、アポロも、ケパも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのものである。 3:23そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである。 — コリント人への第一の手紙3章21-23節、『口語訳聖書』より引用。

カルヴァンはパウロがこの世の栄光を軽視し、十字架のキリストの卑しさ・汚辱を誇りとする生き方をしていたとする。自分たちが何ら軽んじられるような存在ではなく、誇り高い人間だとコリントの信徒たちが思い込んでいたことに対してパウロはコリントの信徒たちが自分を捧げてキリストに仕え、耐え忍ぶ生き方へと変えられるように諭しているのである。[14]

このことのために、わたしは主にあって愛する忠実なわたしの子テモテを、あなたがたの所につかわした。彼は、キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかたを、わたしが至る所の教会で教えているとおりに、あなたがたに思い起させてくれるであろう。 — コリント人への第一の手紙4章17節、『口語訳聖書』より引用。

テモテはパウロの長年に渡る同労者であり、パウロの重要な協力者であることがコリント以外にもピリピ人への手紙やテサロニケ人への第一の手紙などにもテモテへの言及があることによって示されている。テモテは小アジアのルステラ出身で、ユダヤ人女性とギリシャ人の父との間に生まれた。パウロが割礼をテモテに授けたことからテモテの母はテモテに割礼を授けておらず、敬虔で厳格なユダヤ教の教育をテモテが受けていないことを示唆している。しかしテモテは周囲からの評判が良く、パウロからも強い信頼を受けていたことがテサロニケ人への第一の手紙にも示されている。[58]

3:1そこで、わたしたちはこれ以上耐えられなくなって、わたしたちだけがアテネに留まることに定め、 3:2わたしたちの兄弟で、キリストの福音における神の同労者テモテをつかわした。それは、あなたがたの信仰を強め、 3:3このような患難の中にあって、動揺する者がひとりもないように励ますためであった。あなたがたの知っているとおり、わたしたちは患難に会うように定められているのである。 — テサロニケ人への第一の手紙3章1-4節、『口語訳聖書』より引用。

「生活のしかた」と口語訳で訳されているのはὁδούς(hodous)であり、ὁδός(hodos)の女性複数対格である。ὁδός(hodos)はway,road、道という意味やjourney、旅などの意味がある。[59][60]田川は「キリスト・イエスにおける私の道」といった直訳をすべきであり、口語訳のような「生活のしかた」や新共同訳の「イエス・キリストに結ばれたわたしの生き方」といった言い方は当時のギリシャ語でも道が宗教用語で信仰のあり方を示していたことが表現できていないとする。さらに新共同訳聖書の「結ばれた」は原文にはないとして批判している。[2] テモテを「つかわした」という言葉から、パウロが手紙を書いた時点ではテモテの派遣がされていなかったが、手紙が到着した時点では遣わされていた、つまりテモテがコリント人への第一の手紙を届けた可能性も議論されている。しかし、コリント人への第一の手紙16章10節からは手紙の到着時点ではテモテが派遣されていなかったことが示唆されている。

もしテモテが着いたら、あなたがたの所で不安なしに過ごせるようにしてあげてほしい。彼はわたしと同様に、主のご用にあたっているのだから。 — コリント人への第一の手紙16章10節、『口語訳聖書』より引用。

テモテは「主に忠実」な者であり、パウロがコリント人への第一の手紙4章2節で強調している教会指導者に要求される要件を満たしており、テモテ自身がパウロを模範として生きているため、派遣者としてふさわしいと考えられた。パウロがテモテを通して教えようとしたのはどのように歩めば神に喜ばれるかということだったのである。[8]

最後に、兄弟たちよ。わたしたちは主イエスにあってあなたがたに願いかつ勧める。あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。 — テサロニケ人への第一の手紙4章1節、『口語訳聖書』より引用。
しかしある人々は、わたしがあなたがたの所に来ることはあるまいとみて、高ぶっているということである。 — コリント人への第一の手紙4章18節、『口語訳聖書』より引用。

新共同訳聖書では「わたしがもう一度あなたがたのところへ行くようなことはないと見て」と訳されているが、「もう一度」という言葉はギリシャ語の原文にはないとして田川は批判している。[2]

複数の学者による研究から見えてくるコリントの信徒たちのパウロに対する考え方について、いくつかの視点がある。Morrisとヴェントラントは、コリントの一部の信徒たちはパウロがコリントに来ないことに対して、彼がコリントの信徒たちに立ち向かう勇気がないと考えていたとする。[6][23]。彼らはパウロの姿勢に不満を抱き、そのことが彼らの考えを強固にしていた可能性がある。さらに、テモテの派遣がこの見解を強める要因となっている可能性も考慮される。[9]テモテの派遣によって、パウロの不在がより現実味を帯びさせることになった。信徒たちはパウロの訪問を待ち望み、彼が実際には自分たちを訪問しないことに対して腹を立てていたとアンブロシウスは述べている。[8]

口語訳で「高ぶっている」と訳されているのはἐφυσιώθησάν(ephysiōthēsan)であり、φυσιόω(phusioó)のアオリスト直説法受動態三人称複数である。φυσιόω(phusioó)はpuff up、膨れる(高ぶる)、誇るといった意味がある。[61][62]アオリスト直説法は基本的に過去の事柄に使われているが、ここではパウロがコリントに来る可能性が低いと認識した時点から「高ぶり始めた」といった意味合いで使われている。[22]

しかし主のみこころであれば、わたしはすぐにでもあなたがたの所に行って、高ぶっている者たちの言葉ではなく、その力を見せてもらおう。 — コリント人への第一の手紙4章19節、『口語訳聖書』より引用。

「すぐにでもあなたがたの所に行って」について、榊原はピリピ教会でも同様にテモテを派遣して手紙を送り、その後ピリピ教会を訪れる例があったことを指摘する。

2:19さて、わたしは、まもなくテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって願っている。それは、あなたがたの様子を知って、わたしも力づけられたいからである。 2:20テモテのような心で、親身になってあなたがたのことを心配している者は、ほかにひとりもない。 2:21人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。 2:22しかし、テモテの錬達ぶりは、あなたがたの知っているとおりである。すなわち、子が父に対するようにして、わたしと一緒に福音に仕えてきたのである。 2:23そこで、この人を、わたしの成行きがわかりしだい、すぐにでも、そちらへ送りたいと願っている。 2:24わたし自身もまもなく行けるものと、主にあって確信している。 — ピリピ人への手紙2章19-24節、『口語訳聖書』より引用。

ピリピ人への手紙は獄中書簡であるが、コリント人への第一の手紙は獄中書簡ではないので、コリントの信徒たちは獄中にいるなどの事情ではなく、かつまだパウロが訪問していなかったのでパウロ自身はコリントに訪問するつもりがないと考えていた人々がいた。パウロはコリント人への第一の手紙16章8-9節にあるようにエペソ伝道を行っており、コリントに訪問することができなかった。

16:8しかし五旬節までは、エペソに滞在するつもりだ。というのは、有力な働きの門がわたしのために大きく開かれているし、 16:9また敵対する者も多いからである。 — コリント人への第一の手紙16章8-9節、『口語訳聖書』より引用。

しかし、これはコリントにパウロが訪問しないということを意味せず、コリント人への第一の手紙16章5-6節ではマケドニヤを通過してコリントで冬を過ごしてからコリントから出発することを目指していた。ここでのコリント訪問をより良いものにするため問題を改善する必要がパウロにはあったのである。ただしエペソ伝道の進展等訪問の可否はすべて主のお許しによるとも付け加えている。[13]

16:5わたしは、マケドニヤを通過してから、あなたがたのところに行くことになろう。マケドニヤは通過するだけだが、 16:6あなたがたの所では、たぶん滞在するようになり、あるいは冬を過ごすかも知れない。そうなれば、わたしがどこへゆくにしても、あなたがたに送ってもらえるだろう。16:7わたしは今、あなたがたに旅のついでに会うことは好まない。もし主のお許しがあれば、しばらくあなたがたの所に滞在したいと望んでいる。 — コリント人への第一の手紙16章5-7節、『口語訳聖書』より引用。

田川は「言葉ではなく、その力を見せてもらおう」について、単に考えが正しいことではなく、奇跡的な力を見せることを指しているとする。ガラテヤ人への手紙3章5節にも同様にパウロが奇跡的な力を行使していたことが示されている。

すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。 — ガラテヤ人への手紙3章5節、『口語訳聖書』より引用。

Robertsonは「力」とは奇跡的な力のことではなく、人々をキリスト者の生活へと導くことであるとしている。[7]

神の国は言葉ではなく、力である。 — コリント人への第一の手紙4章20節、『口語訳聖書』より引用。

γὰρ(gar)は理由を表す接続詞であり、19節における「言葉ではなく、その力を見せてもらおう」と言ったことの理由が神の国が言葉ではなく力であるということである。新共同訳聖書では「神の国は言葉ではなく力にあるのですから。」と訳している。[2]

カルヴァンはここで言う「神の国」とは神がわたしたちのうちに支配する目的のために存在するものすべてであるとする。そのうえで言葉、つまりどんな雄弁でも言葉だけが響くということは虚しく、力、つまり純粋性と忍耐をもって奉仕が行われるところでこそ威光は現れる。力という言葉には奇跡だけに限定されることではなく、より広い意味を持つのである。今に生きる人間たちも巧妙に語ることに執着し、終始してしまう場合がある。[14]

ヴェントラントは「言葉」と「力」を2度対比させることでコリントの信徒たちが雄弁を重視していることに反論しているとする。パウロの宣教は単なる言葉ではなく、聖霊の力に満ち溢れた言葉なのである。「神の国」はイエスを宣べ伝えた後に神の支配について語ることを指すとする。神の国は最終的には終末論的に完成するが、現在において神の国は現れ始めているのである。[23]

あなたがたは、どちらを望むのか。わたしがむちをもって、あなたがたの所に行くことか、それとも、愛と柔和な心とをもって行くことであるか。 — コリント人への第一の手紙4章21節、『口語訳聖書』より引用。

「むち」はギリシャ語ではῥάβδῳ (rhabdō)であり、ῥάβδος(rhabdos)の女性単数与格である。マタイによる福音書10章10節においては「つえ」の意味で用いられており、宣教旅行の際につえなどの物品を持つことの禁止が語られている。一説ではギリシャ哲学の犬儒派は背負かばんとつえとマントを特徴としていたため、犬儒派と区別するためにこのような命令が出たとの解釈がある。

旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。 — マタイによる福音書10章10節、『口語訳聖書』より引用。

この節においてはギリシャ人の養育係の奴隷が杖を用いてしつけを行っていたため、そのことが考えられている可能性がある。動詞形は杖で打つ、鞭で打つという意味がある。ローマの刑罰の一種であり、尋問の際の拷問にも用いられ、使徒行伝16章22節にあるようにパウロとシラスも受けている。[63]

16:16ある時、わたしたちが、祈り場に行く途中、占いの霊につかれた女奴隷に出会った。彼女は占いをして、その主人たちに多くの利益を得させていた者である。 16:17この女が、パウロやわたしたちのあとを追ってきては、「この人たちは、いと高き神の僕たちで、あなたがたに救の道を伝えるかただ」と、叫び出すのであった。 16:18そして、そんなことを幾日間もつづけていた。パウロは困りはてて、その霊にむかい「イエス・キリストの名によって命じる。その女から出て行け」と言った。すると、その瞬間に霊が女から出て行った。 16:19彼女の主人たちは、自分らの利益を得る望みが絶えたのを見て、パウロとシラスとを捕え、役人に引き渡すため広場に引きずって行った。 16:20それから、ふたりを長官たちの前に引き出して訴えた、「この人たちはユダヤ人でありまして、わたしたちの町をかき乱し、 16:21わたしたちローマ人が、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しているのです」。 16:22群衆もいっせいに立って、ふたりを責めたてたので、長官たちはふたりの上着をはぎ取り、むちで打つことを命じた。 16:23それで、ふたりに何度もむちを加えさせたのち、獄に入れ、獄吏にしっかり番をするようにと命じた。 16:24獄吏はこの厳命を受けたので、ふたりを奥の獄屋に入れ、その足に足かせをしっかとかけておいた。 — 使徒行伝16章16-24節、『口語訳聖書』より引用。

キリストが鞭打たれる場面で使われる動詞はφραγελλόω (phragelloó)であり、ラテン語のflagelloの借用語である。こちらのむち打ちは鉛や骨の切片が用いられたむちを利用して十字架刑の執行前に行われたものである。[64]

カルヴァンはこのパウロの厳しい警告はコリントの信徒たちがかたくなであるゆえであるとしている。パウロが本来望んでいることは「愛と柔和な心」をもってコリントの信徒たちと向き合うことである。しかしパウロは父としてコリントの信徒たちに相対しなければならないので、場合によってはむちを持つことをも辞さないのである。ただし父である以上いかなるときも、むちを持つときであっても子を愛してやまないものである。ここでいう「むち」は破門とも解釈できるが、より広い意味で叱責とカルヴァンは解釈する。[14]

18-21節は5章1-13節につながる移行部分である。パウロの長期不在で傲慢になり、分派行動を起こす原因となっていた指導者たちにパウロが力を示すことを警告している。[12]

脚注

[編集]
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