コチェリル・ラーマン・ナラヤナン
コチェリル・ラーマン・ナラヤナン Kocheril Raman Narayanan | |
任期 | 1997年7月25日 – 2002年7月25日 |
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副大統領 | クリシャン・カント |
出生 | 1921年2月4日 イギリス領インド帝国 トラヴァンコール王国アヘボア |
死去 | 2005年11月9日(84歳没) |
政党 | インド国民会議 |
出身校 | ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス |
配偶者 | ウーシャ・ナラヤナン |
署名 |
コチェリル・ラーマン・ナーラーヤナン(英: Kocheril Raman Narayanan、 K. R. Narayananとしてよく知られていた、1921年2月4日 - 2005年11月9日)は、インドの政治家。第10代インド共和国大統領(在任期間:1997年6月25日 - 2002年6月25日)。
来歴
[編集]1921年2月4日インド南部のケーララ州に最下層のカーストとして生まれる。苦学の末に大学をトップで卒業し、イギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学してハロルド・ラスキに師事した。教師や新聞記者・雑誌記者などのジャーナリストを経て、外務省に入り、日本、イギリス、タイ、トルコなどで外交官として働き、中国大使やアメリカ大使などを歴任する。
1984年インド国民会議派から下院議員選挙に立候補し当選する。外務担当国務相などを歴任し、1992年8月副大統領に、1997年には最下層カースト出身者として初めて大統領に就任した。
1999年、ジャンムー・カシミール州ラダック地方で、パキスタンとカルギル紛争。
在任中、インド独立50周年記念祭を祝っており、2000年には中国を訪問し、印中関係の改善に尽力した。2000年8月、日本の森喜朗首相はナラヤナン大統領を表敬訪問している[1]。
大統領任期の最終年となった2002年には、グジャラート州でイスラーム教徒数千人が虐殺されたグジャラート動乱があった[2][3][4]。ナラヤナンは、宗教的マイノリティーの保護のためにインド軍をうごかすことを望んだが、当時議会で多数派を形成していたインド人民党によって阻まれた。インド人民党はまた、ナラヤナンが大統領職を2期を務めることについても拒否している。
2005年10月29日から急性肺炎をこじらせ、ニューデリーの陸軍病院に入院し、同年11月9日同病院で死去した。85歳没。
家族
[編集]妻は、ビルマ人のMa Trint Trint。2人の間には娘が2人いる。
脚注
[編集]- ^ 森首相、ナラヤナン・インド大統領表敬(日本外務省「過去の記録」)
- ^ 外務省 海外安全ホームページ|安全の手引き - 在ムンバイ日本国総領事館
- ^ インドにおける安全対策について 東京海上日動リスクコンサルティング株式会社作成資料(PDF)
- ^ インドで天下分け目の州選挙 - 日経ビジネスオンライン
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]公職 | ||
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先代 シャンカルダヤール・シャルマー |
インド共和国大統領 第10代:1997年 - 2002年 |
次代 アブドゥル・カラーム |