コスチャンティーン・ヴィシュネヴェーツィクィイ
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コスチャンティーン・ヴィシュネヴェーツィクィイ | |
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紋章 | |
称号 |
ベルズ県知事(1636年‐1638年) ルーシ県知事(1638年‐1641年) |
身分 | 貴族、公爵 |
家名 | ヴィシュネヴェーツィクィイ家 |
民族 | ルーシ人 |
生没 | 1595年 - 1657年8月6日 |
出生 | リトアニア大公国 |
死亡 | ポーランド王国ザロージュツィ町 |
宗教 | 正教徒 |
コスチャンティーン・ヴィシュネヴェーツィクィイ(ウクライナ語: Костянтин Вишневецький)、コンスタンティ・ヴィシニョヴィエツキ(ポーランド語: Konstanty Wiśniowiecki、1564年 - 1641年5月31日)は、ポーランド・リトアニア共和国の貴族、ルーシ人の公、ヴィシュネヴェーツィクィイ家の10代当主である。
概要
[編集]チェルカースィ代官地(1620年‐1633年)、カームヤネツィ代官地(1633年 - 1636年)の代官、ならびにベルズ県(1636年 - 1638年)、ルーシ県(1638年 - 1641年)の知事を務めた。政治・行政・軍事などにおいて活躍し、支配下におかれたウクライナの経済発展に大きく貢献した。モスクワ大公国の動乱時代において偽ドミトリー1世を支持した。1603年に私兵とコサックを率いてモスクワへ入城したが、偽ドミトリー1世の暗殺後、ロシア人によって捕らえられ、コストロマの牢屋に入れられた。1608年7月、和平交渉の結果、解放されたが、その後も、モスクワ大公国へ出兵し、至聖三者聖セルギイ大修道院の包囲に参陣した。また、ヴワディスワフ4世による出兵にも関わった。1641年6月21日にルーシ県ザロージュツィ町で葬られた。
家族
[編集]- 父:コスチャンティーン・ヴィシュネヴェーツィクィイ(?‐1574年)、ジトーミル代官地の代官、キエフ県の知事
- 母:アンナ・エレジュベタ・スヴェルシュ
- 妻:アンナ・ザホールシカ(1583年‐1603年)
- 妻:ウルスーラ・ムニーシェク(1603年‐1628年)、マルィーナ・ムニーシェクの姉妹。
- フェオフィーラ・ヴィシュネヴェーツィカ(? - 1645年)
- アンナ・ヴィシュネヴェーツィカ(? - ?)
- 妻:カテルィーナ・コルニャークト(1628年‐1635年)
- 妻:オレーナ・フルィスティーナ・スチゥルーシ(1635年‐1641年;1647年に死去)
参考文献
[編集]- Войтович Л. Князівські династії Східної Європи (кінець IX — початок XVI ст.): склад, суспільна і політична роль. Історико-генеалогічне дослідження. — Львів: Інститут українознавства ім. І.Крип’якевича, 2000. ISBN 966-02-1683-1
- Czamańska I., Wiśniowieccy. Monografia rodu, Wydawnictwo Poznańskie, Poznań 2007, ISBN 978-83-7177-229-0, s. 147–155.
- 伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 (世界各国史; 20)-東京: 山川出版社, 1998年. ISBN 9784634415003
- ISBN 4121016556 黒川祐次著 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』 (中公新書; 1655)-東京 : 中央公論新社, 2002年.