コシャン (ナイマン部)
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コシャン(モンゴル語: Qošang,? - ?)とは、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人で、ナイマン部の出身。『元史』などの漢文史料における漢字表記は和尚。
概要
[編集]コシャンの祖父海速は昔烈木千戸所の蒙古軍百戸に任ぜられた人物で、伯父のウルグ・ブカ(兀魯不花)、父の怯烈吉を経てコシャンがその地位を継承した[1]。
コシャンは1310年(至大3年)に忠翊校尉・後衛親軍副千戸となり、1315年(延祐2年)には江西で起こった盗賊の蜂起を鎮圧する功績を挙げた[2]。
1328年、天暦の内乱が勃発すると、コシャンはエル・テムルやアラトナシリらの大都派につき、同年九月には通州の戦いに従軍して戦功を挙げた。紅橋の戦いでは自ら敵兵2名を斃して紅橋を奪取した。その後も大都派の将兵として活躍し、内乱終結後には八衛把総金鼓都鎮撫司事に任じられた[3]。
脚注
[編集]- ^ 『元史』巻135列伝22和尚伝,「和尚、蒙古乃蛮台氏。祖海速、充昔烈木千戸所蒙古軍百戸。伯父兀魯不花、初充蒙古軍五十戸。至元七年、従昔烈木千戸南征、以功命権百戸、従僉省阿剌海牙攻樊城。十一年、従攻新城、又従攻鄂東門、攻処州、屡立戦功。二十五年、賜銀符、授敦武校尉・後衛親軍百戸。是年秋卒。父怯烈吉襲。怯烈吉卒、和尚襲」
- ^ 『元史』巻135列伝22和尚伝,「至大三年、進忠翊校尉・後衛親軍副千戸、賜金符。延祐二年、江西寧都寇起、殺守土官吏、従元帥乞住等総兵討之、生擒賊酋蔡五九誅之、擣其巣穴」
- ^ 『元史』巻135列伝22和尚伝,「致和元年八月、西安王以兵討倒剌沙、命従丞相燕帖木児擒烏伯都剌、分兵備禦。天暦元年九月、従戦通州、以功賞名馬。従撃犯紅橋之兵、手戈刺死二人、敗之、奪紅橋。及紐澤大夫等力戦於白浮、殺其四人。和尚白丞相曰『両軍相戦、当有辨、今号纓倶黒、無辨、我軍宜易以白』。丞相然之。戦于昌平栗園、殺二人。又与亜失帖木児戦于石槽、殺三人。十月、従撃禿満台児於檀州南桑口、敗之。又従丞相追撃其軍于檀州之北、有功。十一月、命領八衛把総金鼓都鎮撫司事」
参考文献
[編集]- 『元史』巻135列伝22