コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

ラカトシュ・ゲーザ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゲーザ・ラカトシュから転送)
ラカトシュ・ゲーザ
Lakatos Géza
生年月日 1890年4月30日
出生地 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国 ブダペスト
没年月日 (1967-05-21) 1967年5月21日(77歳没)
死没地 オーストラリアの旗 オーストラリア アデレード
出身校 ルドヴィカ士官学校英語版
称号 ナイト
配偶者 ソミャーシュ・ルイザ

在任期間 1944年8月29日 - 1944年10月16日
テンプレートを表示

ラカトシュ・フォン・チークセントシモン・エドラー・ゲーザ(Lakatos von Csíkszentsimon Edler Géza, 1890年4月30日 - 1967年5月21日)は、ハンガリーの軍人、政治家、首相。最終階級は大将

生涯

[編集]

第一次世界大戦

[編集]

1890年ブダペストの中流家庭に双子として生まれる[1]。中学校を卒業後、双子の弟カールマーンと共にルドヴィカ士官学校英語版に入学した[1]

1910年8月18日、ラカトシュ兄弟はルドヴィカ士官学校を卒業。少尉に任官し、共にハンガリー第1歩兵連隊に配属され、1912年からはハンガリー第14歩兵連隊に所属した[1]1913年にはハンガリー第1歩兵連隊に戻り、1914年8月1日に中尉に昇進した。

第一次世界大戦に従軍するが、9月にカールマーンが戦死。ラカトシュはカールマーンの遺体を回収しようとしたが、発見することは出来なかった。同年、東部戦線で銃弾を受け負傷した[1]。回復後の12月22日からは防諜に従事し、1915年4月から7月までハンガリー第125歩兵旅団参謀を務め、7月14日からはハンガリー第38歩兵旅団参謀を務めた[1]

1916年12月、ドイツ軍との連絡将校を務め、1917年5月1日に大尉に昇進した[2]

ホルティ政権

[編集]

軍人

[編集]
1944年、ヨーゼフ・アウグスト大公(左から6人目)とハンガリー軍参謀団(左から2人目がラカトシュ)

第一次大戦終結後、国防大臣ボーム・ヴィルモスハンガリー語版副官を務めた後、1919年9月に警察本部参謀となり、1920年10月まで務めた[2]

1921年、ブダペスト陸軍士官学校の教官となり、戦争と軍事組織論の講義を担当した[2]

1923年、陸軍省に配属され1928年5月まで諸部門を転々とし、同年少佐に昇進すると同時にナイトの称号を得た[2][3]。5月7日にプラハ駐在武官に任命され、在任中の1929年5月1日に中佐に昇進した[4]1934年、ハンガリーに帰国後、11月1日に大佐に昇進し、14日にはハンガリー第13歩兵連隊長に任命された[4]

1938年5月1日、ハンガリー第1歩兵混成旅団長、1939年1月23日にハンガリー第3歩兵旅団長に任命され、11月1日に少将に昇進した[5]

1940年3月1日、ハンガリー第2軍参謀長に任命された[5]1941年8月1日にはハンガリー第8兵団司令官に任命され、11月1日に中将に昇進した[4][5]

1943年5月1日、ウクライナ占領軍司令官に任命され、キエフに赴任。ウクライナでは橋や道路の補強工事を指示した[6]。8月1日に大将に昇進し、ハンガリー第2軍司令官に任命された[5]。第2軍は消耗が激しく、戦闘を継続出来る状態ではなかったため、1944年3月9日にアドルフ・ヒトラーと会談し、部隊の改善を要請した[7]。しかし、ヒトラーは改善を約束するが実行されず、第2軍はドイツ軍の前線を安定化させるために移動された[7]

4月1日、ハンガリー第1軍司令官に任命される[5]が、5月5日に国防大臣から帰還命令を受け、26日に司令官職をベレグフィ・カーロイと交代した。

首相

[編集]
1944年9月21日、議会で演説するラカトシュ

ブダペストに帰還後、ホルティ・ミクローシュと会談したラカトシュは、その場で首相就任を打診された。

8月29日、親独派のストーヤイ・デメ首相が解任され後任の首相に就任し、ホルティから連合国との和平交渉を進めることを命令された[8]。ラカトシュは和平交渉を進めると同時に、ストーヤイが行っていたユダヤ人の強制移送を停止させるが、ソビエト連邦が和平交渉を拒否したため交渉は失敗した。

10月15日、ドイツ軍がパンツァーファウスト作戦を発動し、サーラシ・フェレンツ率いる矢十字党のクーデターによって政権は崩壊した。ラカトシュは解任後の21日にナチス・ドイツに引き渡され、終戦までショプロンに軟禁された[3]

死去

[編集]

1945年4月1日、ドイツ軍撤退後にソ連軍に逮捕され1946年1月29日まで抑留された[9]。解放後の1951年ハンガリー人民共和国政府から居住制限を受け郊外に転居し、後にエールドに移った[9]

1965年、娘が移住していたオーストラリアアデレードを訪れ同地に定住し、1967年5月21日に脳出血で死去した[9]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e Kovács S. 60.
  2. ^ a b c d Kovács S. 61.
  3. ^ a b Kovács S. 72.
  4. ^ a b c Kovács S. 62.
  5. ^ a b c d e Kovács S. 71.
  6. ^ Kovács S. 63.
  7. ^ a b Kovács S. 65.
  8. ^ Kovács S. 68.
  9. ^ a b c Kovács S. 69.

参考文献

[編集]
  • Fellgiebel, Walther-Peer (2000) (German). Die Träger des Ritterkreuzes des Eisernen Kreuzes 1939–1945 – Die Inhaber der höchsten Auszeichnung des Zweiten Weltkrieges aller Wehrmachtsteile [The Bearers of the Knight's Cross of the Iron Cross 1939–1945 — The Owners of the Highest Award of the Second World War of all Wehrmacht Branches]. Friedberg, Germany: Podzun-Pallas. ISBN 978-3-7909-0284-6 
  • C A Macartney: October Fifteenth – A History of Modern Hungary, 1929–1945, 2 vols, Edinburgh University Press 1956-7.
  • Lakatos Géza: Ahogyan én láttam, Budapest, Európa, 1992.
  • Géza Lakatos: As I saw it: the tragedy of Hungary, Englewood, N.J. : Universe Publishing, 1993.
  • Ignác Romsics: Hungary in the Twentieth Century, Budapest: Corvina, 1999.
  • Kovács, Attila Ótott (2006). Die ungarischen Inhaber des Ritterkreuzes des Eisernen Kreuzes. Ranis: Scherzers Militaer-Verl.. ISBN 978-3-938845-02-8 

外部リンク

[編集]
公職
先代
ストーヤイ・デメ
ハンガリーの旗 ハンガリー王国首相
1944年
次代
サーラシ・フェレンツ