ゲンリフ・ネイガウス
ゲンリヒ・グスタヴォヴィチ・ネイガウス | |
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基本情報 | |
生誕 | 1888年4月12日 |
出身地 | ロシア帝国、エリザヴェトグラード(現 ウクライナ、クロプィウヌィーツィクィイ) |
死没 |
1964年10月10日(76歳没) ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | ピアニスト |
担当楽器 | ピアノ |
ゲンリヒ・グスタヴォヴィチ・ネイガウス[1](Heinrich Gustavovich Neuhaus(z), ロシア語: Ге́нрих Густа́вович Нейга́уз, ウクライナ語: Ге́нріх Гу́ставович Нейга́уз, 1888年4月12日 - 1964年10月10日)はソ連のピアニスト・音楽教師。
ショパン国際ピアノコンクールおよびロン=ティボー国際コンクールの優勝者のスタニスラフ・ブーニンの祖父にあたる。
経歴
[編集]ウクライナのエリザヴェトグラード(現キロヴォフラード)出身。ウクライナのドイツ系(またはスウェーデン系)の家庭に生まれる。両親ともにピアノ教師であったが、ほとんど独学であった。早期の芸術的な発展において、又従兄カロル・シマノフスキや、伯父のフェリックス・ブルーメンフェルトから最も影響を受けた。1902年にエリザヴェトグラードにおいて、11歳のミッシャ・エルマンと共演してリサイタルを行い、1904年にドイツに行き、ドルトムントやボン、ケルン、ベルリンなどで演奏旅行を行なった。その後ベルリンでレオポルト・ゴドフスキーに入門し、1909年から第一次世界大戦の勃発まで、ウィーン音楽院のマスタークラスに参加した。
1914年にエリザヴェトグラードで指導を開始し、後にティフリスやキエフでも教鞭を執った。この頃に、教育活動への興味から演奏活動を止める。1922年にモスクワ音楽院教授となり1935年から1937年まで院長も務めた。後年シベリアに追放されたが、名誉回復により復帰し1956年にロシア人民芸術家に選ばれた。門人にヤコフ・ザーク、エミール・ギレリス、アナトリー・ヴェデルニコフ、スヴャトスラフ・リヒテル、スタニスラフ・ネイガウス、ラドゥ・ルプー、アントン・ギンスブルク、アレクセイ・ナセトキンがいる。
ネイガウスは、詩的な魅力を湛えた演奏や、芸術的な洗練、該博な教養ゆえに幅広く称賛されてきた。著書『ピアノ奏法論[2]』(1958年)は、この問題を扱った本の中で最もよく読まれ、かつ重用されている。
家族と親族
[編集]- グスタフ・ネイガウス - 父。カロル・シマノフスキの恩師。
- マリア・ネイガウス - 母。カロル・シマノフスキの父スタニスワフ・シマノフスキの従姉妹。
- スタニスラフ・ネイガウス - 息子。
- スタニスラフ・ブーニン - 孫。