ゲオルク・ビューラー
人物情報 | |
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生誕 |
1837年7月19日 ハノーファー王国、ボルステル |
死没 |
1898年4月8日(60歳没) ドイツ帝国 / バイエルン王国、リンダウ |
出身校 | ゲッティンゲン大学 |
学問 | |
研究分野 | 言語学・東洋学(インド学) |
ヨハン・ゲオルク・ビューラー(Johann Georg Bühler、1837年7月19日 - 1898年4月8日)は、ドイツのインド学者。インドの写本や碑文の収集・研究で知られる。
経歴
[編集]ビューラーはディープホルツ郡ボルステルで生まれた。ゲッティンゲン大学で古典と東洋学を学び、ギリシア語の文法の論文で1858年に博士の学位を取得した[1]。その後パリとロンドンで1862年までサンスクリットの古写本を調査した。
フリードリヒ・マックス・ミュラーの推薦によって[2]1863年からインドにわたり、ボンベイ(ムンバイ)のエルフィンストーン・カレッジの東洋語教授に就任した。ビューラーは教育につとめるとともに、各地で図書を調査し、写本を購入した。1871年から写本の目録を公刊した(4冊)。
1878年から翌年にかけて長期の休暇をヨーロッパで過ごし、この間に結婚した[3]。1879年にインドに戻ったが、健康を害したために翌1880年にインドでの仕事を辞任した。
ウィーン大学に招聘されて1881年にインド文献学・考古学教授に就任した[4]。ビューラーはそこで東洋研究センターを創立し、『ウィーン東洋学報』(Wiener Zeitschrift für die Kunde des Morgenlandes、略称 WZKM)を創刊した。1895年には『インド・アーリア文献学・考古学概要』(Grundriß der Indo-arischen Philologie und Altertumskunde)シリーズを創始し、その監修を行った。
主な著書
[編集]ビューラーはレイモンド・ウェスト(英語版)と共著でヒンドゥー法の翻訳を行った。
- A Digest of Hindu Law (2nd ed.). Bombay: Education Society's Press. (1878) [1867-1869]
ミュラーの『東方聖典叢書』のためにダルマ・スートラとマヌの法典を英語に翻訳した。
- The Sacred Laws of the Âryas. Part I. Oxford: Clarendon Press. (1879)
- The Sacred Laws of the Âryas. Part II. Oxford: Clarendon Press. (1882)
- The Laws of Manu. Oxford: Clarendon Press. (1886)
『インド古文書学』は、それまでのインド古文字研究の集大成であり[6]、『インド・アーリア文献学・考古学概要』シリーズに収録された。
- Indische Palaeographie von ca. 350 a. Chr. bis ca. 1350 p. Chr.. Strassburg: Karl J. Trübner. (1896)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- Jolly, J. translated by G. U. Thite (2010). “Georg Bühler”. Annals of the Bhandarkar Oriental Research Institute 91: 155-186. JSTOR 41692167.(原文はドイツ語、『インド・アーリア文献学・考古学概要』1899年)
- Kirfel, Willibald: Bühler, Johann Georg. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 2, Duncker & Humblot, Berlin 1955, ISBN 3-428-00183-4, S. 726 f. (電子テキスト版).
- Winternitz, Moriz (1903). "Bühler, Georg". Allgemeine Deutsche Biographie (ドイツ語). Vol. 47. Leipzig: Duncker & Humblot. pp. 339–348.
- 田中敏雄 著「インド系文字の発展」、西田龍雄 編『世界の文字』大修館書店、1981年、181-210頁。