コンテンツにスキップ

ケビン・シュワンツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ケビン・シュワンツ
1993年日本GPでの走り
グランプリでの経歴
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
活動期間 1986年 - 1995年
チーム スズキ
レース数 105
チャンピオン 1(500cc) 1993年
優勝回数 25
表彰台回数 51
通算獲得ポイント 1236.5
ポールポジション回数 29
ファステストラップ回数 26
初グランプリ 1986年(500cc)
オランダGP
初勝利 1988年(500cc)
日本GP
最終勝利 1994年(500cc)
イギリスGP
最終グランプリ 1995年(500cc)
日本GP
テンプレートを表示

ケビン・ジェームズ・シュワンツKevin James Schwantz, 1964年6月19日 - )は、アメリカテキサス州ヒューストン出身の元オートバイロードレースライダー。1993年ロードレース世界選手権500ccチャンピオン。1988年から1995年までの8シーズンでGP通算25勝を記録した。ニックネームはフライング・テキサン。[1]

経歴

[編集]

ヨシムラスズキの契約ライダーとしてAMAスーパーバイク選手権で活躍。この当時からウェイン・レイニーとの激しいライバル関係が始まった。1988年より、スズキのエースとしてロードレース世界選手権500ccクラスにフル参戦。第1戦日本GPでは、前年チャンピオンのワイン・ガードナーと激しいトップ争いを展開し、劇的な初優勝を遂げる。このシーズンは雨のドイツGPでも優勝し、シーズン2勝を挙げランキング8位を得る。また、この年にはマカオGPの2輪レースに参戦。落ち葉を避けるためにウィリー走行するなど特徴的な走りで優勝した。

シュワンツは当初、速さこそ見せるが転倒やマシントラブルによるリタイヤも多く、1989年シーズンはタイトルを獲得したエディ・ローソンを上回る最多の6勝をマークするも、同数のリタイアを喫し、ランキングは4位に留まった。ヤマハのウェイン・レイニーとは1989年日本GP、1991年ドイツGP1993年日本GPなど多くのレースで接戦を演じた。

特にシュワンツを語る上で記憶に残っている1991年のドイツGP(ホッケンハイム)での「レイトブレーキ」の場面でレイニーをインから差して抜き去るシーンがファンの間でも語り草になっている。実際に数周前からこのコーナーへの進入スピードがレイニーより少し高いと気付いたシュワンツは確実にインを差すまでブレーキを我慢していたが、あの周では思った以上にスピードが出てしまい本人もパニック状態だったらしい。しかし、XR77のブレーキがギリギリの所で機能を発揮し、レイニーを抜き去る事が出来、その後は1度もレイニーに先行を許すことなくこのレースで優勝している。

ロードレース世界選手権復帰後の第1戦日本GPでスズキ初の優勝をもたらした1988年のワークス車両

1993年、シュワンツは手堅いレース運びを身につけポイント争いをリードしたが、イギリスGPのもらい事故で負った怪我のため、終盤戦レイニーに逆転を許す。しかし、第12戦イタリアGP決勝中、そのレイニーが転倒により選手生命を絶たれてしまう重傷を負い、引退。シュワンツは順調にポイントを重ね、ポイントでレイニーを再逆転、念願のタイトルを獲得する。だがレイニーをサーキット上で打ち負かし、勝利することを目標としてきたシュワンツは「彼の怪我が治るならチャンピオンなんかいらない。」と発言し、初のタイトルを獲得した喜びよりもライバルを失った落胆の気持ちを表した。

1994年はチャンピオンの証であるゼッケン1(その中心部には彼の象徴ともいえる「34」が小さく記されていた)を掲げて連覇に挑むが、左手首の怪我という身体のダメージと、最大のライバル、レイニーを失った心のダメージに苦しみ、日本GPとイギリスGPでの2勝にとどまった。同年イギリスGPでは、破竹の勢いでポイントを積み上げるホンダのマイケル・ドゥーハンに対し、負傷した左腕をかばいながらも果敢にチャレンジを続け、得意のブレーキングでオーバーテイクに成功。得意とするドニントン・パークで優勝し、これがシュワンツにとっての最後の優勝となった。

1995年は第3戦日本GPを最後に欠場した後、第6戦イタリアGPにて引退を表明(日本GPからの帰途の飛行機内で、レイニーとの話し合いの末、引退を決意したという)。このとき負傷していた左手首を眺めて目を潤ませながらも、どこか重圧から解放されたような清清しい姿を見せた。年間チャンピオン獲得数は勝利数の割には少なく1回であるが、そのスリリングな走りで圧倒的な歓声を浴び、88年から94年まで人気No.1レーサーであり続けた。

2013年鈴鹿8時間耐久ロードレースチームカガヤマから参戦。決勝レースではかつてのライバルであるレイニーのレプリカヘルメットを被って出走した。担当したのは1スティントのみで、全盛期のスピードこそなかったもののベストラップはチームメイトの2人から2秒程しか落ちておらず、伝説のライダーとしての実力をいかんなく発揮。結果は3位表彰台を獲得した。

2014年は同レースにヨシムラ創立60周年を記念して作られたレジェンドチームより青木宣篤辻本聡と共に参戦したが、雨の中スタートとなった決勝レースでは、スターティングライダーの青木が5周目に、同じヨシムラチームである津田拓也に130Rで仕掛けたところ曲がりきれず転倒。マシンが大破したため再スタートできずリタイアとなり、シュワンツは走ることなく終わった。

スタイル

[編集]

細身の長身を活かしたライディングフォームが特徴。上体を起こし、長い手足で巧みにマシンを操る豪快なスタイルはロデオにも例えられた。デビュー当初は童顔ということもありピノキオ坊やとも呼ばれていた。

シュワンツのライディングの特徴には、深いバンク角とレイトブレーキがある。シュワンツには独走優勝というレースは少なく、終始接近戦を展開し、ゴール付近でブレーキングを遅らせて首位を奪取し僅差で勝利を手にするレースをよく見せた。シュワンツの象徴的なレースとして、しばしばウェイン・レイニーを最終ラップにスタジアムセクションの入り口のブレーキングで豪快に追い抜いた1991年ドイツGPが挙げられる。首位独走中にクラッシュしたこともあり、トップライダーとしては異例なほど転倒が多かったが、これは当時のRGV-ΓがライバルのNSRYZRに対してエンジンパワーでかなり劣っていたため、それを圧倒的なコーナリングスピードでカバーしようとしていたが故でもある。しかし、テストライダーだった樋渡治によるとシュワンツの仕様をテストした際にブレーキが全く効かず、日信工業製カーボンセラミックローターを使った際に効き過ぎると証言している。また、バランス感覚に長けており竜洋テストコースで縁石の上をママチャリで何事も無く走っていたが、誰一人としてそれを出来なかったほどバランス感覚が良かったことも挙げている。[2]

エピソード

[編集]

主な戦績

[編集]

AMA

[編集]

ロードレース世界選手権

[編集]
  • 凡例
  • ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
クラス チーム マシン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 ポイント 順位 勝利数
1986 500cc リズラ・スズキ RG-Γ500 SPA
-
ITA
-
GER
-
AUT
-
YUG
-
NED
NC
BEL
10
GBR
NC
GBR
-
SWE
-
RSM
10
2 22位 0
1987 500cc ヘロン・スズキ RGV-Γ500 JPN
-
SPA
5
GER
-
ITA
8
AUT
-
YUG
-
NED
-
GBR
9
GBR
-
SWE
-
CZE
-
RSM
-
POR
-
BRA
-
ARG
-
11 16位 0
1988 500cc ペプシスズキ RGV-Γ500 JPN
1
USA
5
SPA
NC
EXP
DNF
ITA
4
GER
1
AUT
4
NED
8
BEL
DNF
YUG
-
GBR
3
GBR
DNF
SWE
12
CZE
NC
BRA
3
119 8位 2
1989 500cc ペプシスズキ RGV-Γ500 JPN
1
AUS
DNF
USA
2
SPA
DNF
ITA
DNS
GER
DNF
AUT
1
YUG
1
NED
DNF
BEL
2
GBR
2
GBR
1
SWE
DNF
CZE
1
BRA
1
162.5 4位 6
1990 500cc ラッキーストライクスズキ RGV-Γ500 JPN
3
USA
DNF
SPA
3
ITA
2
GER
1
AUT
1
YUG
2
NED
1
BEL
7
GBR
1
GBR
1
SWE
DNF
CZE
DNF
HUN
3
AUS
DNF
188 2位 5
1991 500cc ラッキーストライクスズキ RGV-Γ500 JPN
1
AUS
5
USA
3
SPA
DNF
ITA
7
GER
1
AUT
3
EUR
4
NED
1
GBR
4
GBR
1
RSM
2
CZE
5
VDM
1
MAL
DNS
204 3位 5
1992 500cc ラッキーストライクスズキ RGV-Γ500 JPN
3
AUS
4
MAL
DNS
SPA
4
ITA
1
EUR
4
GER
2
NED
DNF
HUN
4
GBR
DNF
GBR
DNF
BRA
7
RSA
5
99 4位 1
1993 500cc ラッキーストライクスズキ RGV-Γ500 AUS
1
MAL
3
JPN
2
SPA
1
AUT
1
GER
2
NED
1
EUR
3
RSM
2
GBR
DNF
CZE
5
ITA
3
USA
4
FIM
3
248 1位 4
1994 500cc ラッキーストライクスズキ RGV-Γ500 AUS
4
MAL
6
JPN
1
SPA
2
AUT
2
GER
2
NED
5
ITA
3
GBR
DNF
GBR
1
CZE
7
USA
-
ARG
-
EUR
-
169 4位 2
1995 500cc ラッキーストライクスズキ RGV-Γ500 AUS
5
MAL
4
JPN
6
SPA
-
GER
-
ITA
-
NED
-
GBR
-
GBR
-
CZE
-
BRA
-
ARG
-
EUR
-
34 15位 0

鈴鹿8時間耐久レース

[編集]
車番 ペアライダー チーム マシン 予選順位 決勝順位 周回数
1985 15 グレーム・クロスビー チームヨシムラモチュール スズキ・GSX-R750 11 3 192
1986 12 辻本聡 ヨシムラ スズキ・GSX-R750 6 3 194
1987 12 大島行弥 ヨシムラスズキオリオフィアット スズキ・GSX-R750 3 Ret 19
1988 12 ダグ・ポーレン ヨシムラスズキシエットGP-1 スズキ・GSX-R750 3 2 201
1989 12 ダグ・ポーレン ヨシムラスズキシエットGP-1 スズキ・GSX-R750R 3 8 197
1992 43 ダグ・チャンドラー ラッキーストライクスズキ スズキ・GSX-R750R 25 Ret 50
2013 071 加賀山就臣芳賀紀行 Team KAGAYAMA スズキ・GSX-R1000 6 3 213
2014 071 青木宣篤辻本聡 Legend of YOSHIMURA SUZUKI Shell ADVANCE スズキ・GSX-R1000L4 9 Ret 5

注釈

[編集]
  1. ^ Flying Texan 飛ぶテキサス人の意。
  2. ^ 『Racers. 3, Schwantz Γ』三栄書房、2010年。ISBN 978-4-7796-0866-7 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]


タイトル
先代
ウェイン・レイニー
WGP500ccクラス チャンピオン
1993
次代
マイケル・ドゥーハン