ケルンの戦い
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ケルンの戦い | ||||||||
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衝突した勢力 | ||||||||
アウストラシア反乱軍 | アウストラシア |
ネウストリア フリースラント王国 | ||||||
指揮官 | ||||||||
カール・マルテル |
プレクトルード テウドアルド |
キルペリク2世 ラガンフリド レッドボット |
ケルンの戦い (ドイツ語: Schlacht bei Köln フランス語:Bataille de Cologne)は、716年にケルン付近で行われた戦闘。レッドボット率いるフリース人が、宮宰カール・マルテル率いるフランク王国を破った。カール・マルテルにとっては生涯で最初の戦闘指揮であり、唯一の敗北となった[1]。
概要
[編集]716年、フランク王キルペリク2世とネウストリア宮宰ラガンフリドはアウストラシアに侵攻した。この分国はかつて宮宰ピピン2世に牛耳られ、この時も彼の孫テウドアルドと未亡人プレクトルードの支配のもとでフランク王に反抗していた。ピピン2世の庶子カール・マルテルは父の死後プレクトルードによってケルンに幽閉されていたが、脱出に成功して独自にアウストラシア宮宰を名乗ったため、アウストラシアは分裂状態になっていたのである。この内乱に目を付けたフリースラント王レッドボットは、キルペリク2世やラガンフリドと同盟して自らもアウストラシアに侵攻した。
カール・マルテルはケルンの街の外でレッドボットに敗北し、アイフェル山地に逃亡した。間もなくケルン市も開城し、プレクトルードはキルペリク2世をフランク王として認めさせられた[2]。
キルペリク2世らはケルン市の身代金として、プレクトルードがケルンにためてきた財産を奪った。一方カール・マルテルはアイフェルで素早く自分の軍勢を再編し、ケルンから意気揚々と帰還するネウストリア・フリースラント連合軍をアンブレーヴの戦いで撃破した。
脚注
[編集]- ^ “Geschiedenis van het volk der Friezen”. Boudicca.de. 2009年6月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年1月22日閲覧。
- ^ Kurth, Godefroid. "Charles Martel." The Catholic Encyclopedia. Vol. 3. New York: Robert Appleton Company, 1908. 20 Jul. 2014
参考文献
[編集]- Oman, Charles. (1914). The Dark Ages 476–918. Rivingtons: London.