グリゴリー・ペトロフ
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グリゴリー・コンスタンチノヴィチ・ペトロフ Григорий Константинович Петров | |
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生年 | 1892年 |
生地 | ロシア帝国リャザン県リャザン郡リャザン |
没年 | 1918年9月20日 |
没地 | ロシア社会主義連邦ソビエト共和国ザカスピ州クラスノヴォツク郡、カスピ海横断鉄道ペレヴァル駅=アフチャ・クイマ駅間[1] |
思想 | 社会主義 |
活動 | バクー・コミューンの防衛 |
所属 |
社会革命党左派 赤衛隊 |
記念碑 | リャザン、五月一日大通り |
グリゴリー・コンスタンチノヴィチ・ペトロフ(ロシア語: Григорий Константинович Петров, ラテン文字転写: Grigorii Konstantinovich Petrov, 1892年 - 1918年9月20日)は、ロシアの革命家であり、26人のバクー・コミッサールの一員である。
生涯
[編集]1892年にロシア帝国リャザン県リャザンに生まれ、地元のレアルシューレに通った[2]。二月革命後の1917年4月には市内で労働者による自警組織を立ち上げ、その指導者となった[2]。自身は社会革命党左派に属していたが[3]、労働者の集会では主にボリシェヴィキを支持した[2]。同年12月には、市ソビエトによって正式に民兵組織司令官と承認された[2]。同月にはドンへ赴き、赤衛隊を指揮してアレクセイ・カレージンの軍と戦った[2]。カフカース戦線では第1南部方面軍を指揮した[2]。
1918年5月にはリャザンで開かれた労働者・兵士・農民ソビエト第3回県会議に議員として出席した[2]。夏頃にはバクー・コミューンを防衛するために赤衛隊を率いて現地へ赴き、オスマン帝国のイスラーム軍と戦った[3]。しかし、コミューンの崩壊後は捕らえられ、9月20日に他のコミューン成員らとともにカスピ海横断鉄道沿線で処刑された[3]。
1982年、レフ・ケルベリ制作によるペトロフの彫像が、リャザンの五月一日大通りに設置された[3]。
脚注
[編集]- ^ Бакинские комиссары / Л. С. Шаумян // Ангола — Барзас. — М. : Советская энциклопедия, 1970. — (Большая советская энциклопедия : [в 30 т.] / гл. ред. А. М. Прохоров ; 1969—1978, т. 2).
- ^ a b c d e f g “Рязань. Вехи революции”. Рязанский язык (2010年11月1日). 2016年4月4日閲覧。
- ^ a b c d “Памятник Григорию Петрову”. ВездеКультура. 2016年4月4日閲覧。