グラシアノ・ロッシジャーニ
基本情報 | |
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通称 | ロッキー (Rocky) |
階級 |
スーパーミドル級 ライトヘビー級 |
身長 | 185cm |
リーチ | 189cm |
国籍 | ドイツ |
誕生日 | 1963年12月29日 |
出身地 | デュースブルク |
死没日 | 2018年10月1日(54歳没) |
死没地 | ベルパッソ |
スタイル | サウスポー |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 48 |
勝ち | 41 |
KO勝ち | 19 |
敗け | 6 |
引き分け | 1 |
グラシアノ・ロッシジャーニ(Graciano Rocchigiani、1963年12月29日 - 2018年10月1日)は、ドイツ(生誕当時は西ドイツ)のプロボクサー。デュースブルク出身。元IBF世界スーパーミドル級王者。元WBC世界ライトヘビー級暫定王者。
WBCに対して訴訟を起こし、勝訴。WBCの存続問題にまで発展した。
元WBO世界クルーザー級王者ラルフ・ロッシジャーニは実兄であり、キャリア後期にはトレーナーを務めた。
来歴
[編集]1983年9月10日、プロデビュー。
1988年3月11日、IBF世界スーパーミドル級王座決定戦でビンセント・ポールウェア( アメリカ合衆国)と対戦し、8回TKO勝ちで世界王座を獲得した。
1989年1月27日、スラニー・マリンガ( 南アフリカ共和国)と対戦し、3-0の判定勝ちで3度目の防衛に成功した。その後、王座を返上した。
1994年2月5日、WBO世界スーパーミドル級王座クリス・ユーバンク( イングランド)に挑戦し、0-3の判定負けで王座獲得ならず。
1995年5月27日、IBF世界ライトヘビー級王者ヘンリー・マスケ( ドイツ)に挑戦し、0-3の判定負けで王座獲得ならず。
1995年10月14日、ヘンリー・マスケとダイレクトリマッチで対戦し、0-3の判定負けで王座獲得ならず。
1996年8月10日、WBO世界ライトヘビー級王者ダリユシュ・ミハルチェフスキ( ドイツ)に挑戦し、7回失格負けで王座獲得ならず。
1998年3月21日、WBC世界ライトヘビー級王座決定戦でマイケル・ナン( アメリカ合衆国)と対戦し、2-1の判定勝ちで王座を獲得した。その後、暫定王座に格下げされ(後述)、1度も防衛戦を行うことなく2000年に王座を剥奪された。
2000年4月15日、WBO世界ライトヘビー級王者ダリユシュ・ミハルチェフスキに3年8か月ぶりに挑戦し、9回終了時TKO負けで王座獲得ならず。
2003年5月10日の試合を最後に引退した。
2006年11月、ドイツでジムを設立した。
2006年、タクシードライバーへの暴行により、禁固5か月の判決を下された。
2018年10月1日にイタリアのベルパッソにて車に轢かれて死去。54歳没[1]。
訴訟問題
[編集]WBCはライトヘビー級王者ロイ・ジョーンズ・ジュニアが1997年に階級変更を表明したため、王座返上の手続きを待つことなくロッシジャーニとマイケル・ナンとで王座決定戦を承認し、1998年3月21日の試合に勝利したロッシジャーニが王座を獲得したものの、その2か月後にロイ・ジョーンズ・ジュニアが階級変更を撤回すると、王座復帰を認め、ロッシジャーニを暫定王者とした。これを不服とし、ロッシジャーニはアメリカで訴訟を起こした。ニューヨーク連邦地裁は2003年4月、WBCに対し3,100万ドル(約34億円)という損害賠償金の支払命令を出した。
2003年4月23日、WBCが米連邦改正破産法第11条の適用申請を行った(日本の会社更生法に相当し、破産宣告をすることによって支払い義務が免除される)。後に取り下げ。
2004年6月14日、WBCが米連邦改正破産法第7条の適用申請を行った(会社清算に相当)。後に取り下げ。
2004年8月、和解が成立。支払金額の減額と分割払いに合意したと言われる。
獲得タイトル
[編集]出典
[編集]- ^ “Boxe, è morto Graciano Rocchigiani L’ex iridato investito da un’auto in Italia” (イタリア語). ガゼッタ・デロ・スポルト (2018年10月2日). 2018年10月20日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]空位 前タイトル保持者 朴鐘八 |
IBF世界スーパーミドル級王者 1988年3月11日 - 1989年(返上) |
空位 次タイトル獲得者 リンデル・ホームズ |
前暫定王者 ロイ・ジョーンズ・ジュニアの正規復帰に伴う認定 |
WBC世界ライトヘビー級暫定王者 1998年3月21日 - 2000年(剥奪) |
次暫定王者 剥奪により消滅 |