グナエウス・コルネリウス・ドラベッラ (紀元前159年の執政官)
グナエウス・コルネリウス・ドラベッラ Cn. Cornelius Cn. f. Cn. n. Dolabella[1] | |
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出生 | 不明 |
死没 | 不明 |
出身階級 | パトリキ |
氏族 | コルネリウス氏族 |
官職 |
グナエウス・コルネリウス・ドラベッラ(ラテン語: Gnaeus Cornelius Dolabella、生没年不詳)は 、紀元前2世紀中頃の共和政ローマの政務官。紀元前159年にコンスル(執政官)を務めた。
出自
[編集]パトリキ(貴族)である、コルネリウス氏族の出身。ドラベッラというコグノーメン(第三名、家族名)が確認できるのは、紀元前283年の執政官プブリウス・コルネリウス・ドラベッラが最初である。コグノーメンは、ラテン語の「dolabra」(斧)に由来すると思われる[2]。
カピトリヌスのファスティによれば、ドラベッラの父も祖父も、プラエノーメン(第一名、個人名)はグナエウスである[3]。父グナエウスは、紀元前208年から紀元前180年まで、レクス・サクロルム(Rex Sacrorum、祭儀監督官)を務めた。
経歴
[編集]紀元前165年、アエディリス・クルリス(上級按察官)に就任した。同僚にはセクストゥス・ユリウス・カエサルがいた。この年のメガレシア祭で、テレンティウスの『義母』が初演された[4][5]。しかしながら大変に不評で、第一幕と第二幕の間に、多くの観客が劇場を出て綱渡りと剣闘士競技を見に行った。
紀元前162年、プラエトル(法務官)を務め、紀元前159年に執政官となった。同僚のプレプス(平民)執政官はマルクス・フルウィウス・ノビリオルであった。二人は賄賂禁止法(コルネリウス・フルウィウス法、Lex Cornelia Fulvia de ambitu)を制定している[6]。
子孫
[編集]息子グナエウスは、ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌスの義兄弟と言われている。紀元前81年の執政官グナエウス・コルネリウス・ドラベッラは、孫である。
脚注
[編集]古代の資料
[編集]- カピトリヌスのファスティ
- ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』
研究書
[編集]- Ernst Badian : The Dolabella of the Republic. In: Papers of the British School at Rome . New Series, Vol. 20, 1965
- T. R. S. Broughton (1951). The Magistrates of the Roman Republic Vol.1. American Philological Association
関連項目
[編集]公職 | ||
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先代 マルクス・コルネリウス・ケテグス ルキウス・アニキウス・ガッルス |
執政官 同僚:マルクス・フルウィウス・ノビリオル 紀元前159年 |
次代 マルクス・アエミリウス・レピドゥス ガイウス・ポピッリウス・ラエナス |