サフラン色の死神
サフラン色の死[1](サフランいろのし、ラテン語: Crocea Mors[2])はジェフリー・オブ・モンマスの『ブリタニア列王史』(1136年ごろ)などに登場する伝説の宝剣。
ジェフリーの記述によれば、この剣は元来は史的人物ユリウス・カエサルの所有する必殺の剣であったが、ローマによるブリタンニア侵攻の際に行われた戦闘で、伝説上の人物ネンニウス(Nennius of Britain)に鹵獲され、数多くのローマ兵を討ち果たした。しかしネンニウスも同じ剣から受けた頭傷により15日後に死亡、サフラン色の死はトリノヴァントゥム(現在のロンドン)の彼の墓に副葬された。
後の翻案では、刃に金文字で銘打たれていた、何の薬も効かない、毒刃が用いられていた、などの脚色が加わっている。
語釈
[編集]「サフラン色の死」という名は、「その剣より怪我を負った者は死をまぬがれること決して能わず」ゆえ、とジェフリーの『ブリタニア列王史』は伝えている[3]。
サフラン色の死神とも訳されるが、これは後のラテン詩翻案『ブリタニア列王の事績』(1236/1254年)よりの和訳であり[4]、原典では剣名があべこべ(ラテン語: Mors Crocea[5])に表記される。
原典の剣名「クロケア・モルス」はラテン語で、「クロケア crocea( croceusの活用形)」は、「クロッカス」の花名と通じる色彩語であり、「サフラン色」・「黄色」を指す[注 1][6][7]。「モルス mors」は「死」(またはその擬人化である「死神」)の意である[8]。
剣名の「サフラン色」とは、この剣に純金が施されていることを意味しているという説がある[4][注 2]。また異説では、中世ウェールズで恐れられた「黄色の疫病」[注 3]に着想を得た名前とされる[10][11][注 4]。
ウェールズ語名
[編集]中期ウェールズ語に翻案された『諸王の歴代史』(13世紀中葉以降の諸写本)には、剣名は「赤い死」(angeu coch)[14][注 5]または「青白い/青い死」(angeu glas)と記載される[14][注 6][注 7]。
フランス語異名
[編集]古フランス語系のアングロ=ノルマン語で著された『スカラクロニカ』(1363年ごろ、後述)では剣名をクロシ=アムール(Crochi Amour、"曲った愛")とフランス語系に読み替えて別の意味を通している[注 8][18]。
ブリタニア列王史
[編集]ローマよりの侵略者ユリウス・カエサルの斬撃を頭に受けるも、その剣を盾でもぎとり奪ったネンニウスは、ブリトン国の王子で、ヘリ王の三男、ルッドやカッシウェラウヌス(いずれも後の王)の弟であったと[21][注 9]、ジェフリーの偽史は伝えている。
トリノヴァントゥム(現今のロンドン一帯)に侵攻したローマ軍の将、カエサルと一騎討ちしたネンニウスは、カエサルの剣「サフロンの死」を頭に受けるが、刃が跳ねて盾に突き刺さり、これを奪う。ネンニウスが得た新たな剣により、ローマ兵は"あるいは斬首され、あるいはすれ違いざまに回復の見込みないほど重傷を負った"と記述される。トリブヌス級指揮官のラビエヌス(誤謬[注 10])も討取られたとされる。[27]。
しかし合戦から15日後、ネンニウスは頭に受けた傷がもとで死亡し、トリノヴァントゥム(ロンドン)の北門あたりに埋葬された。「サフロンの死」は副葬品となった[30]。
後の翻案
[編集]ウァースによる古フランス語(アングロ=ノルマン語)への『ブリュ物語』(1155年)にも同剣での戦いのエピソードは記載されている。その脚色によれば、刃の上の方、柄の近くに剣名が金文字で銘打たれていた。また、その殺傷力について、負った傷はいかなる薬でも治癒できないと表現される[31][注 11]。またカエサルは剣を失ったことで、多大の面目を失い、フランス[注 12]での蜂起につながった、としている[32]。
ラテン詩『ブリタニア列王の事績』でも、「サフラン色の死神」はその名の通り、負わせた傷はいかなる薬でも救うことができない剣であり、それを知り得たローマ兵はネンニウスがふるう「サフラン色の死神」から一目散に逃げ去った、としている[4]。
ラヤモンの中英語『ブルート』は、ウァースを土台に英語化した作品であり[33]、同剣のエピソードも翻案されている[34]。
トーマス・グレイがアングロ=ノルマン語で著した史書『スカラクロニカ』(1363年ごろ)も、カエサル遠征の箇所はほぼウァースから引き継いでいるが、逸脱する部分も若干みえる[注 13][注 14][35]。
『ブリトン人のサガ』(抄本が14世紀初頭の《ホイクルの書》に所収)によれば、ネンニウスはこの剣で頭を負傷したその夜のうちに死亡したが[注 15]、これはカエサルが剣に毒を用いたせいだとしている[37][38]。
近世以降
[編集]英国テューダー朝にはネンニウスは英国が独立国家たる象徴となり、国粋主義的な意味合いに取られた。16世紀の詩集『為政者の鑑』[注 16]においては、ネンニウスは"外国の侵攻から英国人民を守るインスピレーション的な故事"として扱われた[39]。『為政者の鑑』の補遺部(Parts Added)として刊行された詩行では、ネンニウスはカエサルが卑怯にも毒刃を用いたため、頭部の傷は浅かったのに[注 17]、それが15日経つと致命傷(脳に達する炎症/化膿[注 18])になったのだと弾劾している[38]。
エドマンド・スペンサー作『妖精の女王』第二巻(1590年)においては、カエサルがネンニウスを殺したその剣は今でも目にすることができるとされていて[40]、エリザベス1世の時代に、その剣と伝わる物品がどこかに展示されていたことが示唆される[41]。それと合致する伝・カエサル/ネンニウスの剣は、ロンドン塔に保管されていたと、すでに15世紀の文献『Anonymi Chronicon Godstovianum(作者不明のゴッドストウ年代記)』に記載される[44]。
英国ジェームズ1世の時代に移ってもネンニウスの戦いは作品に登場した。そのうち注記すべき一作がジャスパー・フィッシャーの戯曲『Fuimus Troes(我らはトロイア人なり)』(1633年刊行)である。これはブリトン人の闘争精神を旨とし、開幕の演説において国民に侵略に講ぜよと説く。ネンニウスとカエサルの戦い後の葬礼競技がこの芝居の頂点(クライマックス)である[39][注 19]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ サフラン(スパイスや染料)の原料はクロッカスの雄しべ。
- ^ 後述するように、刀身には金文字で剣名が銘打たれているという脚色が後の作品によって付加された。
- ^ ラテン語: Pestis flava; ウェールズ語: dylyt melen[9]。
- ^ この病名は、近代では南米やアフリカの黄熱病を指して用いられる場合があるが、中世の「黄熱病」は様々な病気が推察されている。6世紀のウェールズのマイルグウィン・グウィネズ王が「黄色の疫病」で没したという伝承(あるいは後の創作)が知られているが[9]、これも諸説あり、シラミが媒介し黄疸も発症することがある回帰熱の比定もある[12]。参考まで、7世紀に英国やアイルランドに蔓延した「黄色の疫病」についてもペスト(一般には14世紀に上陸したと思われている)か天然痘と推察される[13]。
- ^ 例えばコットン・クレオパトラ写本ではangheu coch[15]、ランステファン1写本ではAghev Coch[16]と綴られる。
- ^ 「青白い/青い死」はエヴァンスの語釈"Pale Death/Blue Death"の流用であるが[14]、このglasという色彩語は、実際は「グレー、グリーン、ブルー」などの範囲があるとされる。さらには古くは「イエロー」系であるとも認識されていた、と提唱されている(根拠:クネグラススという人名の意味をギルダスは「黄のかかった灰色のと屠殺者(lanio fulve)」と語釈している)[12]。
- ^ 例えば《ヘルゲストの赤本》の稿本ではageu glas〔ママ〕と見える[17]。
- ^ これは作者の意図的な読み替えかもしれないが、写本生による誤写の可能性も残る。
- ^ 中期ウェールズ語『諸王の歴代史』(前出)の記述ではスェヴェリスという四人目の兄弟が加わる[22]
- ^ ティトゥス・ラビエヌスと混同されているが、ここはクィントゥス・ラベリウス・ドゥルスであるべきだと指摘される[23]。この同様の間違いは、オロシウス、のちベーダが冒している[24]。
- ^ ロバート・マニング・オブ・ブランによる中英語の『年代記』(1338年ごろ)にも同様な内容がみつかる[31]。
- ^ ローマの属州としてはフランス南部はガリア・ナルボネンシス、以北はガリア・ケルティカ等と称した。
- ^ 『スカラクロニカ』では剣名が"曲った愛"とあることは上述した。
- ^ 『スカラクロニカ』はひとつの写本のみ現存するが、現在進行形で全文は刊行されていない(King, Andy, ed. Sir Thomas Gray: Scalacronica, 1272-1363 (2005b)に拠る))。Nearing (1949)論文でも、当該箇所はグレイの「ローマ史」の部に収録されたため、それまで抜粋が掲載されたジョン・レイランド『Collectanea』や、Joseph Stevenson 編の抜粋からも選に漏れていると説明される。以後出た King 編本(2005年刊行)は13-14世紀の部に限定される。
- ^ ジェフリーの列王史では、約二週間後ほど("head wound a fortnight later")[36]に死んだ。原文は上述したように15日後に死んだとする。
- ^ 『君侯の鑑』とも。
- ^ "scarce he perced had the skin"
- ^ "my braynes it ranckle in"
- ^ 同時代にネンニウスが登場する作品で、他にも注記すべき別例には、ジョン・フレッチャーの『en:Bonduca』(1613年初演)も挙げられる[39]。これはブーディカ女王をネンニウス配下の将にすえているが、時代錯誤である[45]。
出典
[編集]- ^ a b c d 瀬谷訳 (2007)『ブリタニア列王史』
- ^ Geoffrey of Monmouth & Griscom ed. (1929), p. 311.
- ^ Geoffrey of Monmouth & Griscom ed. (1929), p. 311: "Erat nomen gladii crocea mors quia nullus euadebat uiuus qui cum illo uulnerbatu".
- ^ a b c 瀬谷訳 (2020)『ブリタニア列王の事績』 p.177
- ^ Michel ed. (1862) 『ブリタニア列王の事績 (Gesta Regum Britanniae)』1265行。
- ^ 斎藤博「キリシタン版辞書におけるラテン語訳語考(その1)?「羅葡日」「拉日」「羅西日」「日葡」辞書の色彩語について」『東京成徳国文』第5巻、1982年3月。, 22pp. 『国文学年次別論文集』(1992)中世 · 第2巻、828頁所収。黄色の節、<ラ日(拉日)><ラス日(羅西日)>辞書の"croceus"の見出し。
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- ^ Layamon (1847a). Madden, Frederic. ed. Layamons Brut, Or Chronicle of Britain. Society of Antiquaries of London. 1: 323–326, vv. 7558–7673
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45v, lines 6-12: "Ivlii en er þeir hofþv lengi barz þa mottvz þeir ivlius & nenivs broðir casibellanvs.. do hann sam nottvm siþar þviat sverðit var eitr hert" (They fought each other a long time before Julius met Nennius, Cassibellaunus's brother... [Nennius] died in the same night because the sword was tempered with poison)
- ^ a b Nearing (1949), p. 926が指摘するように、16世紀の詩集『為政者の鑑』(後述)と『ブリトン人のサガ』のいずれも剣に毒が塗られたとしている。英語詩には"But thou hadste bathde thy sword in poyson all"等とみえる。
- ^ a b c Curran, John, Roman Invasions: The British History, Protestant Anti-Romanism, and the Historical Imagination in England, 1530-1660, University of Delaware Press, 2002, p.167.
- ^ Faerie Queene, II.x.9: "was charged heauily / Of hardy Nennius, whom he yet did slay / But lost his sword, yet to be seene this day".
- ^ Nearing (1948), p. 403.
- ^ Nearing (1948), pp. 403–404.
- ^ Nearing (1949), p. 923, n73.
- ^ Nearing[42][43]引きトマス・ハーン編『ウィリアム・ローパーによるトマス・モア伝』(1716年、原題:Guilielmi Roperi Vita D. Thomae Mori equitis aurati, lingua anglicana contexta..)所収『Anonymi Chronicon Godstovianum』のテキスト:"Nennius frater Cassibulani regis eripuit gladium vel sicam de manu Julii, quae sica in hunc diem custoditur in turri London" (sg. Bbv).
- ^ Jowitt, Claire, Voyage Drama and Gender Politics, 1589-1642: Real and Imagined Worlds, Manchester University Press, 2003, p.107.
参照文献
[編集]一次資料
[編集]- ジェフリー・オヴ・モンマス『アーサー王ロマンス原拠の書 ブリタニア列王史』瀬谷幸男(訳)、南雲堂フェニックス、2007年9月。
- Geoffrey of Monmouth (1848), translated by J. A. Giles, “British History by Geoffrey of Monmouth” (英語), Six Old English Chronicles: 3.20, 4.3-4, ウィキソースより閲覧。
- Geoffrey of Monmouth (1929). Griscom, Acton. ed. The Historia Regum Britanniæ of Geoffrey of Monmouth. With translation of Welsh version by Robert Ellis Jones. London: Longmans, Green and Company. pp. 301, 309–311
- ウィリアム・オヴ・レンヌ『ブリタニア列王の事績—中世ラテン叙事詩』瀬谷幸男(訳)、論創社、2020年4月10日。ISBN 978-4846019174。
- William of Rennes (1862). Michel, Francisque. ed. Gesta Regum Britanniae. A Metrical History of the Britons of the 13. Century. Bordeaux: G. Gounouilhou. p. 46
二次資料
[編集]- Nearing, Homer, Jr. (September 1949). “The Legend of Julius Caesar's British Conquest”. PMLA 64 (4): 889–929. JSTOR 459639.
- O'Sullivan, Thomas D. (1978). The De Excidio of Gildas: Its Authenticity and Date. Leiden: E.J. Brill. ISBN 9789004057937
- Randell, Kelly Ann (2009). “'And there was a fourth son': Narrative Variation in 'Cyfranc Lludd a Llefelys'”. Proceedings of the Harvard Celtic Colloquium 29: 268–281. JSTOR 41219644 .