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クレヴァ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クレヴァ

Крэва
Skyline of クレヴァ
クレヴァの公式印章
印章
クレヴァの位置(ベラルーシ内)
クレヴァ
クレヴァ
北緯54度18分37秒 東経26度17分12秒 / 北緯54.31028度 東経26.28667度 / 54.31028; 26.28667
 ベラルーシ
フロドナ州
地区 スマルホニ地区英語版
標高
250 m
人口
(2004年)
 • 合計 726人
地図

クレヴァベラルーシ語: Крэва発音 [ˈkrɛva]リトアニア語: Krėvaロシア語: Крéво)とは、ベラルーシフロドナ州のスマルホニ地区に属する村である。ポーランド語ではクレヴォポーランド語: Krewo)。

村の名前はクリヴィチ族の名前に由来する[1]

歴史

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リトアニア大公ゲディミナス(1275年 - 1341年)の治世に、村の近郊にクレヴァ城が建てられたと考えられている[2]1382年にリトアニア大公ケーストゥティス内戦の中でクレヴァに投獄され、甥のヨガイラの命令で殺害された。

1385年にクレヴァ近郊のクレヴァ城で「クレヴォ合同」として知られる契約が締結され、リトアニア大公となったヨガイラとポーランド女王ヤドヴィガの結婚が取り決められた。1387年にヨガイラはリトアニアに最初のキリスト教区を設置し、今日では聖マリア教会として知られる教会を建立した。

第一次世界大戦ではクレヴァは最前線となり、クレヴァ城の遺構も著しい被害を受けた[3]第二次世界大戦の前、クレヴァには500人のユダヤ人が住んでいた。ドイツ兵が町を占領した後、ユダヤ人はゲットーに収容され、過酷な条件下で奴隷と同じように使役された。[4]1942年に彼らはヴィリニュスアシュミャヌィに設置されていたゲットーに移送された。[5]

クレヴァ城の遺構

脚注

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  1. ^ Жучкевич В. А. Краткий топонимический словарь Белоруссии. — Мн.: Изд-во БГУ, 1974. С. 182.
  2. ^ アルフォンサス・エイディンタス等『リトアニアの歴史』梶さやか、重松尚訳、明石書店、2018年、55頁。ISBN 978-4-7503-4643-4 
  3. ^ Kreva”. VEDAJ.BY. 2019年2月閲覧。
  4. ^ Krewo - Virtual Shtetl”. sztetl.org.pl. 2017年7月15日閲覧。
  5. ^ המכון הבין-לאומי לחקר השואה - יד ושם”. yadvashem.org. 2017年7月15日閲覧。

外部リンク

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  • ウィキメディア・コモンズには、クレヴァに関するカテゴリがあります。

座標: 北緯54度18分39秒 東経26度17分00秒 / 北緯54.3108度 東経26.2833度 / 54.3108; 26.2833