クレヴァ
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クレヴァ Крэва | ||
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村 | ||
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北緯54度18分37秒 東経26度17分12秒 / 北緯54.31028度 東経26.28667度 | ||
国 | ベラルーシ | |
州 | フロドナ州 | |
地区 | スマルホニ地区 | |
標高 | 250 m | |
人口 (2004年) | ||
• 合計 | 726人 | |
クレヴァ(ベラルーシ語: Крэва、発音 [ˈkrɛva]、リトアニア語: Krėva、ロシア語: Крéво)とは、ベラルーシのフロドナ州のスマルホニ地区に属する村である。ポーランド語ではクレヴォ(ポーランド語: Krewo)。
歴史
[編集]リトアニア大公ゲディミナス(1275年 - 1341年)の治世に、村の近郊にクレヴァ城が建てられたと考えられている[2]。1382年にリトアニア大公ケーストゥティスは内戦の中でクレヴァに投獄され、甥のヨガイラの命令で殺害された。
1385年にクレヴァ近郊のクレヴァ城で「クレヴォ合同」として知られる契約が締結され、リトアニア大公となったヨガイラとポーランド女王ヤドヴィガの結婚が取り決められた。1387年にヨガイラはリトアニアに最初のキリスト教区を設置し、今日では聖マリア教会として知られる教会を建立した。
第一次世界大戦ではクレヴァは最前線となり、クレヴァ城の遺構も著しい被害を受けた[3]。第二次世界大戦の前、クレヴァには500人のユダヤ人が住んでいた。ドイツ兵が町を占領した後、ユダヤ人はゲットーに収容され、過酷な条件下で奴隷と同じように使役された。[4]1942年に彼らはヴィリニュスとアシュミャヌィに設置されていたゲットーに移送された。[5]
脚注
[編集]- ^ Жучкевич В. А. Краткий топонимический словарь Белоруссии. — Мн.: Изд-во БГУ, 1974. С. 182.
- ^ アルフォンサス・エイディンタス等『リトアニアの歴史』梶さやか、重松尚訳、明石書店、2018年、55頁。ISBN 978-4-7503-4643-4。
- ^ “Kreva”. VEDAJ.BY. 2019年2月閲覧。
- ^ “Krewo - Virtual Shtetl”. sztetl.org.pl. 2017年7月15日閲覧。
- ^ “המכון הבין-לאומי לחקר השואה - יד ושם”. yadvashem.org. 2017年7月15日閲覧。
外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、クレヴァに関するカテゴリがあります。