クルナ (ジョチ家)
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クルナ・ハン(قلنا خان /qulnā khān、? - 1360年)、もしくはクルパ・ハン(قلپا خان /qulpā khān)は、バトゥ家断絶後(1359年8-9月から1360年1月)のジョチ・ウルスのハン。先代ハンのベルディ・ベクを殺害して即位したものの、ジョチ・ウルス全体を統治する力を失い、ジョチ・ウルスに「大紛乱(эамятня беликая)」と呼ばれる混乱時代をもたらしたことで知られる[1]。
概要
[編集]クルナの出自は明らかではないが、一説にはジャニベク・ハンの息子で、先代ハンのベルディ・ベクや後継者のナウルーズの弟ともされる[2]。しかし、ジャニベク・ハンの息子であるベルディ・ベクは生後8カ月の弟を含む12人もの近親者を虐殺したとされており、クルナ(クルパ)がジャニベク・ハンの息子である可能性は低いと考えられる。
クルナ・ハンは先代ハンで、バトゥ直系最後のハンとなったベルディ・ベクを殺害してハン位についた[3]。ロシアの年代記によると、クルナの治世は6カ月と5日で、多くの悪事を働き、最後には息子のミハイルとイワンとともに、次のハンとなったナウルーズに殺されたとされる[3]。16世紀に編纂された『チンギズ・ナーマ』ではベルディ・ベク・ハンの死後にジョチ・ウルスの民は右翼(西半)を支配するママイと左翼(東半)を支配するテンギズ・ブカによって分割されたとあり、これをそのまま史実とは見なせないが、クルナの治世は各地の有力勢力の自立化が進んだ時代と考えられている[4][5]。
バトゥ家
[編集]- ジョチ太子(Jöči >朮赤/zhúchì,جوچى خان/jūchī khān)
- 1サイン・カン/バトゥ大王(Batu >抜都/bádōu,باتو/bātū)
- 2サルタク大王(Sartaq >撒里答/sālǐdā,سرتاق/sartāq)
- トクカン(Tuquqan >توقوقان/tūqūqān)
- エブゲン(Ebügen >ابوكان/abūkān)
- 3ウラクチ(Ulaqči >اولاقچى/ūlāqchī)
- 4西方諸王ベルケ(Berke >別児哥/biéérgē,بركاى/barkāy)
- 1サイン・カン/バトゥ大王(Batu >抜都/bádōu,باتو/bātū)
先述したように、クルナがバトゥ家の出身である可能性は低いと考えられる。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 赤坂, 恒明『ジュチ裔諸政権史の研究』風間書房、2005年2月。ISBN 4759914978。 NCID BA71266180。OCLC 1183229782。
- 加藤, 一郎「14世紀前半キプチャク汗国とロシア : 汗国史へのエチュード(3)」『言語と文化』第2号、文教大学、1989年6月、49-69頁、NAID 120006418487。
- 川口, 琢司「キプチャク草原とロシア」『中央ユーラシアの統合 : 9-16世紀』岩波書店〈岩波講座世界歴史 11〉、1997年11月、275-302頁。ISBN 400010831X。 NCID BA33053662。OCLC 170210973。
- 川口, 琢司 (1880-11). “キプチャク草原とロシア”. History of the Mongols from the 9th to the 19th Century. 岩波講座世界歴史 11. 岩波書店. pp. 275-302. ISBN 400010831X. NCID BA33053662. OCLC 170210973
- Howorth, Henry Hoyle (1970). History of the Mongols from the 9th to the 19th Century. II. London: Longmans, Green. NCID BA08286614
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