クリスティアーノ・バンティ
クリスティアーノ・バンティ Cristiano Banti | |
---|---|
生誕 |
1824年1月4日 イタリア,サンタ・クローチェ・スッラルノ |
死没 |
1904年12月4日 イタリア,フィレンツェ |
運動・動向 | マッキア派 |
クリスティアーノ・バンティ(Cristiano Banti 、1824年1月4日 - 1904年12月4日)はイタリアの画家である。「マッキア派」の画家の一人である。
略歴
[編集]トスカーナ州ピサ県のサンタ・クローチェ・スッラルノの資産家の家に生まれた。シエーナの美術学校で学んだ。初めは「新古典派」のスタイルで歴史画を描き[1]、異端審問でのガリレオを描いた作品が知られている[2][3][4]。
1854年にフィレンツェに移り、フィレンツェの芸術家たちのたまり場であった「カッフェ・ミケランジョロ」を訪れるようになり、テレマコ・シニョリーニの影響を受けて、「マッキア派」の理念に傾倒するようになり、自らの代表作であったガリレオを描いた絵を「不名誉な作品」として否定するようになった[5]。他の画家に比べて経済的に恵まれていたので、セスト・フィオレンティーノのMontorsoliやプラート県のMontemurloの自分の別荘に友人の画家たちを迎えた[1] 。シニョリーニやヴィンチェンツォ・カビアンカとリグリア海に面した港町、ラ・スペツィアに写生旅行を行った。美術収集家としても同時代の、シルヴェストロ・レーガやジョヴァンニ・ファットーリ、ジュゼッペ・アッバーティ、アントニオ・フォンタネージといった画家の作品を収集した。
1861年にパリに出て、「バルビゾン派」の画家、コンスタン・トロワイヨンやジャン=バティスト・カミーユ・コローに学び、イタリアに戻った後もトスカーナの村、カステルフランコ・ディ・ソプラで製作を続けた。1875年に再びパリを訪れ、1879年と1887年にはロンドンを訪れた。
1870年にパルマの展覧会の審査員の一人に選ばれ、1884年にフィレンツェの美術学校(Accademia di belle arti di Firenze)の教授となった[1] 。
1904年にモンテムルロで亡くなった。バンティのコレクションは亡くなって10年後に競売にかけられ散逸した。
作品
[編集]-
噂話
-
「子供たち」
-
「農民の集まり」
-
風景画のための習作
-
"Bundlers"
-
「雨」
脚注
[編集]- ^ a b c Banti Cristiano , su SIUSA Sistema Informativo Unificato per le Soprintendenze Archivistiche
- ^ Biographical notes from the Enciclopedia Italiana by Nello Tarchiani @ Treccani.
- ^ Baroque Routes. p. 16.
- ^ De Lucca, Denis (2015). Tomaso Maria Napoli: A Dominican friar's contribution to Military Architecture in the Baroque Age. International Institute for Baroque Studies: University of Malta. p. 254. ISBN 978-999-57-0-837-5.
- ^ Adriano Cecioni, Scritti e ricordi (1905), reprinted by BiblioLife (2014) ISBN 1-295-44510-7
参考文献
[編集]- Giorgio Di Genova, BANTI, Cristiano, in Dizionario biografico degli italiani, vol. 5, Roma, Istituto dell'Enciclopedia Italiana, 1963.
- Giuliano Matteucci Cristiano Banti - catalogo dei dipinti dell'artista e delle opere della sua collezione, Firenze, Arti Grafiche Il Torchio, 1982