クリスティアン (シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公)
クリスティアン Christian | |
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シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公 | |
在位 | 1663年 - 1698年 |
出生 |
1627年6月19日 シュレースヴィヒ公国、グリュックスブルク城 |
死去 |
1698年11月17日(71歳没) シュレースヴィヒ公国、グリュックスブルク城 |
配偶者 | ジビーレ・ウルズラ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル |
アグネス・ヘートヴィヒ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=プレーン | |
子女 |
フィリップ・エルンスト ゾフィー・アウグステ クリスティアン・アウグスト |
家名 | 古グリュックスブルク家 |
父親 | シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公フィリップ |
母親 | ゾフィー・ヘートヴィヒ・フォン・ザクセン=ラウエンブルク |
宗教 | キリスト教ルター派 |
クリスティアン(Christian von Schleswig-Holstein-Sonderburg-Glücksburg, 1627年6月19日 - 1698年11月17日)は、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク家(1622年創設)の第2代公爵(在位1662年 - 1698年)。
生涯
[編集]シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク公フィリップと、その妻でザクセン=ラウエンブルク公フランツ2世の娘であるゾフィー・ヘートヴィヒの間の唯一成育した息子で、1662年父の死とともにその全所領を単独相続した。
ところがゴットルプ公クリスチャン・アルブレクトとデンマーク王権との抗争を理由に、デンマーク王フレゼリク3世もその後継者クリスチャン5世も、クリスティアンに対する封土授与式を実施しなかった。さらにデンマーク王権は領邦高権のないゾンダーブルク一門の分有領主身分の公爵の所領に対し、納税さえ要求してきた。クリスティアンは同世代のいとこたち、ゾンダーブルク公クリスティアン・アドルフやノルブルク公ヨハン・ボギスラウを襲ったような経済的破滅を[1]、義兄のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公ルドルフ・アウグストの政治介入と財政援助により、何とか回避することができた。さらに有能な領地管理人を抱えていたおかげで、クリスティアンはデンマーク王権の課す税の負担を乗り切り、所領を減らさず保持することに成功した。
所領内の6つの教区共同体に対して、就学義務制度を導入し、グリュックスブルクおよびムンクブラールプに学校を開き[2]、1682年領内に独自の礼拝次第を定めた。
子女
[編集]家督継承の翌年の1663年9月13日、ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公アウグスト2世の最年長の娘で大変な教養の持ち主であったジビーレ・ウルズラと最初の結婚をした。しかしジビーレは早くも1664年重い病にかかり、1671年難産が原因で死亡した。間に生まれた4子(死産児2名を含む)はいずれも生後2ヶ月以上生きながらえることができなかった。
1672年5月10日、叔父のプレーン公ヨアヒム・エルンストの娘アグネス・ヘートヴィヒ(1640年 - 1698年)と再婚。間に生まれた7子のうち3名が成育した。
- フィリップ・エルンスト(1673年 - 1729年) - グリュックスブルク公
- ゾフィー・アウグステ(1674年 - 1713年)
- クリスティアン・アウグスト(1681年 - 1714年)
参考文献
[編集]- Carsten Porskrog Rasmussen: Die älteren Glückburger Herzöge. In: Ders. u. a.(Hg.) im Auftrag der Gesellschaft für Schleswig-Holsteinische Geschichte: Die Fürsten des Landes. Herzöge und Grafen von Schleswig, Holstein und Lauenburg. Neumünster: Wachholtz, 2008, ISBN 978-3-529-02606-5, S. 271–290; S. 275–278.
引用・脚注
[編集]- ^ Carsten Porskrog Rasmussen: Die älteren Glückburger Herzöge. S. 277
- ^ Carsten Porskrog Rasmussen: Die älteren Glückburger Herzöge. S. 285