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クララ・バット

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クララ・バット
Clara Butt
夫のケナリー・ラムフォードと
基本情報
生誕 1872年2月1日
イングランドの旗 イングランド サセックス
死没 (1936-01-23) 1936年1月23日(63歳没)
イングランドの旗 イングランド オックスフォードシャー
ジャンル クラシック
職業 コントラルト
クララ・バットによる『希望と栄光の国』、1911年

デイム・クララ・エレン・バット(Dame Clara Ellen Butt DBE 1872年2月1日 - 1936年1月23日)は、イングランドコントラルト。リサイタルや演奏会で歌手として活躍した。力強く深みのある彼女の声はカミーユ・サン=サーンスエドワード・エルガーといった同時代の作曲家に感銘を与え、エルガーは彼女の声を念頭に置いて歌曲集を作曲した。

バットはオペラにはわずか2度しか出演しておらず、いずれもクリストフ・ヴィリバルト・グルックの『オルフェオとエウリディーチェ』であった。彼女はサン=サーンスの『サムソンとデリラ』での歌唱も希望していたが、これは実現しなかった。キャリア後期の彼女は、夫であるバリトンケナリー・ラムフォードと共にリサイタルの舞台に上がることが多かった。彼女は蝋管・レコードへ多数の録音を行っている。

幼少期からキャリア初期

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バットはサセックスサウスウィック英語版で、船の船長だったヘンリー・アルバート・バットとその妻クララ(旧姓 フック)の間に長女として生まれた[1]1880年、一家はイングランド東部、ブリストルの港町へと移り住む。クララはサウス・ブリストル高校へと通い、ここで彼女の歌唱能力が知られるようになり、表現者としての才能が磨かれた。学校長の要望により、バスのダニエル・ルーサム(作曲家のシリル・ルーサムの父)の指導を受けた彼女は、ルーサムが音楽監督を務めるブリストル祝祭合唱団に所属した[1]

1890年1月に奨学金を獲得して王立音楽大学へと入学したバットは、歌唱をジョン・ヘンリー・ブロアーに[2]ピアノマーマデューク・バートンに師事した[3]。王立音楽大学で声楽を学ぶ4年間のうち、ヴィクトリア女王の後ろ盾を得た彼女は3か月をパリで過ごした。さらに、ベルリンイタリアでも学んでいる[1]

バットは1892年12月7日ロンドンロイヤル・アルバート・ホールにおいて演奏されたアーサー・サリヴァンカンタータ黄金伝説』でプロとしてのデビューを飾った。3日後にはロンドンのライシーアム劇場Lyceum Theatre)においてグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』でオルフェオ役を演じている[2]。この公演は王立音楽大学の主催で、指揮はスタンフォードであった[4]。ザ・ワールドの音楽評論家であったジョージ・バーナード・ショーは、バットが「合理的に考え得る期待の最大値をはるかに超越していた」と書いた上で、彼女が並みならぬキャリアを歩むだろうと予測した[5]

ジャック・ブイーの下でさらなる研鑽に励むべく、バットはパリへと赴いた。ブイーはルイーズ・ホーマールイーズ・カークビー・ランといった国際的名声を手にした女性歌手を指導した人物である。その後ベルリンへと移った彼女は、一線を退いた有名なソプラノ歌手のEtelka Gersterの下でさらに技術に磨きをかけた[1]。バットの歌声を聴いたサン=サーンスは、彼女に自作のオペラ『サムソンとデリラ』に取り組んでほしいと希望したが、聖書を題材とした作品の上演が禁じられていた当時のイギリスでは、この願いは叶わなかった[6]。法改正に伴い同オペラが1909年ロイヤル・オペラ・ハウスで上演された際、デリラ役を歌ったのはランであり、バットはこれに落胆した[7]

バットはその声質と6フィート2インチという長身により、イギリスの演奏会の舞台で名声を獲得した[2]。彼女は多数のレコード録音を遺しており、伴奏はリリアン・ブライアントであることが多かった。バットは複数回にわたってサリヴァンの歌曲『The Lost Chord』を録音しているが[8]、彼女はこの作品の手稿譜を友人のファニー・ロナルズ英語版から遺言で譲り受けていた[注 1]。彼女は主に演奏会で歌手として活躍し、オペラへの出演は『オルフェオとエウリディーチェ』の2回の公演のみであった。当時のイギリスを代表する作曲家であったエドワード・エルガーは、彼女の独唱を念頭にコントラルトと管弦楽のための連作歌曲集『海の絵』を作曲した。1899年10月5日ノリッジで行われた初演では作曲者自身が指揮し、バットがソロを歌った。彼女はこの歌曲集からは第4曲「珊瑚礁のあるところ」のみを録音している。

バットのテッシトゥーラは非常に広く、C3からA5に及んだ。

20世紀

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1900年6月26日にバリトンのケナリー・ラムフォードと結婚したバットは、それ以降彼と共に演奏会の舞台に上がることが多くなった[2]。夫妻は2男1女を儲けた[1]。主要な音楽祭や演奏会で数多く歌うのみならず、バットは王室からの命を受けてヴィクトリア、エドワード7世ジョージ5世らの御前でも歌唱を披露した。彼女はオーストラリア日本カナダニュージーランドアメリカや多くのヨーロッパの都市を演奏旅行で訪れている[1]

第一次世界大戦中、バットは奉仕事業として多くの演奏会を企画して自ら歌い、この功績により1920年の市民戦時功労者としてデイムに叙された[1]。この年、彼女はコヴェント・ガーデンにおいてミリアム・リセットと共に、トーマス・ビーチャムの指揮するグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』で4回歌っている。タイムズ紙の報じたところによると、舞台上での彼女は落ち着きがなく、最も有名なアリア「エウリディーチェを失って」では「劇的に歌おうとするあまりテンポが走るとともに拍節感を逸し、フレージングも損なわれた[11]。」彼女がプロとしてオペラの舞台に上がったのはこの時だけであった[4]

バットの3人の妹も歌手であった。その1人であるエセル・フックは実力でコントラルトとして名を馳せ、ソロ・レコーディングを行い、また1926年にはリー・ド・フォレストフォノフィルム方式の初期トーキーに出演した。

晩年のバットには悲劇がつきまとった。長男は学生時代に髄膜炎で死亡し、下の子は自ら命を絶った[1]1920年代になると、脊柱に癌を患い著しく健康を損ねる。彼女は晩年の録音を車いすに腰掛けたまま行った。1931年から苦しめられた事故の後遺症により、バットは1936年にオックスフォードシャーノース・ストーク英語版で63年の生涯を閉じた[1]

脚注

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注釈

  1. ^ The Lost Chord』の楽譜の写しはロナルズとともに埋葬されたが[9]リチャード・ドイリー・カートのオペラ興行会社で指揮者を務めたデイヴィッド・マッキーによれば、ロナルズは遺言で原本をバットに譲ったという。バットの死後の1950年、夫のラムフォードはこの原稿をWorshipful Company of Musiciansへと寄贈し、同団体は現在もこれを所有している[10]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i Kennedy, Michael. "Butt, Dame Clara Ellen (1872–1936)", Oxford Dictionary of National Biography, Oxford University Press, 2004. Online edition, January 2011, accessed 24 March 2013 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入)
  2. ^ a b c d Fuller Maitland J A, et al. "Butt, Dame Clara", Grove Music Online, Oxford Music Online. Oxford University Press, accessed 24 March 2013 (Paid subscription required要購読契約)
  3. ^ Leonard, p. 33
  4. ^ a b "Dame Clara Butt", The Times, 24 January 1936, p. 16
  5. ^ Shaw, p. 765
  6. ^ Leonard, pp. 66–67
  7. ^ Leonard, p. 67
  8. ^ Buckley, Jack. "In Search of The Lost Chord". MusicWeb International, accessed 2 September 2010
  9. ^ Ainger, p. 128
  10. ^ Mackie, p. 143
  11. ^ "Dame Clara Butt in Opera", The Times, 2 July 1920, p. 10

参考文献

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  • Ainger, Michael (2002). Gilbert and Sullivan – A Dual Biography. Oxford: Oxford University Press. ISBN 0195147693 
  • Leonard, Maurice (2012). Hope and Glory: a life of Dame Clara Butt. Brighton: Victorian Secrets. ISBN 1906469385. https://books.google.co.uk/books?id=OfgvfQO5zRYC&printsec=frontcover&dq=Clara+Butt+Leonard&hl=en&sa=X&ei=y-pOUda4PMvXPbyAgZAC#v=onepage&q=Clara%20Butt%20Leonard&f=false 
  • Mackie, David (2006). Arthur Sullivan and The Royal Society of Musicians. London: The Royal Society of Musicians of Great Britain. ISBN 0950948136 
  • Shaw, Bernard; Dan H Laurence (ed) (1898). Shaw's Music – The Complete Music Criticism of Bernard Shaw, Volume 2. London: The Bodley Head. ISBN 0370312716 

関連文献

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外部リンク

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