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クライド・ドレクスラー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クライド・ドレクスラー
Clyde Drexler
ヒューストン大学でのドレクスラー
引退
愛称 Clyde the Glide
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1962-06-22) 1962年6月22日(62歳)
出身地 ルイジアナ州ニューオーリンズ
身長(現役時) 200 cm (6 ft 7 in)
体重(現役時) 95 kg (209 lb)
キャリア情報
高校 スターリング高等学校英語版
大学 ヒューストン大学英語版
NBAドラフト 1983年 / 1巡目 / 全体14位[1]
プロ選手期間 1983年–1998年
ポジション SG
背番号歴 22
永久欠番 トレイルブレイザーズ  22 
ロケッツ  22 
指導者期間 1998年–2002年
経歴
選手時代:
19831995ポートランド・トレイルブレイザーズ
19951998ヒューストン・ロケッツ
コーチ時代:
1998–2000ヒューストン大学英語版
受賞歴
NBA通算成績
得点数 22,195 (20.4 ppg)
リバウンド数 6,677 (6.1 rpg)
アシスト数 6,125 (5.6 apg)
Stats Basketball-Reference.com
Stats ウィキデータを編集 NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten
バスケットボール殿堂入り選手 (詳細)
カレッジバスケットボール殿堂入り (2006年)
代表歴
キャップ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 1992
獲得メダル
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
オリンピック
1992 バルセロナ バスケットボール
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
バスケットボールアメリカ選手権
1992 ポートランド バスケットボール

クライド・オースティン・ドレクスラー (Clyde Austin Drexler, 1962年6月22日 - ) は、アメリカ合衆国ルイジアナ州ニューオーリンズ出身の元プロバスケットボール選手で元指導者。現在は3on3バスケットボールリーグ「Big3」のコミッショナーである。「Clyde the Glide (クライド・ザ・グライド)[注 1] 」の愛称で親しまれ、全米プロバスケットボール協会 (NBA) で15シーズンプレーし、キャリアの大半をポートランド・トレイルブレイザーズで過ごした後、ヒューストン・ロケッツで現役生活を終えた。ドレクスラーは、史上最高のシューティングガードの一人として評されている[1]

1992年バルセロナオリンピックバスケットボール代表に選出され、金メダリストとなる。オールNBA1stチームに1回(1992年)、同2ndチームに2回(1988年1991年)、同3rdチームに2回(1990年1995年)選出されている。NBA優勝経験1回。1996年には、NBA50周年を記念した「50人の偉大な選手」の一人に選ばれた。1998年に引退、2004年バスケットボール殿堂入りを果たした。選手生活の平均得点は20.4点、通算得点は22,195点。身長201cm。

学生時代

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高校時代、それほど目立たなかったドレクスラーが名門ヒューストン大学英語版に入学できたのは理由があった。当時既に大学で注目を集めていたマイケル・ヤング(後にボストン・セルティックスに1巡目24番目指名)による「高校時代最も手強かった相手」との言葉を聞いた大学幹部が獲得に動いた為だ。

ヤングの言葉通りドレクスラーは、1年目から頭角を現しチームに欠かせない選手となり、2年目にはすでにNBAも注目する大スター選手へと成長を遂げていた。当時のヒューストン大学は「ファイ・スラマ・ジャマー」(Phi Slama Jama)と呼ばれるダンク集団であり、その中心にいたのが元NBA屈指の名センター、アキーム・オラジュワンとドレクスラーだった。名ダンカーがひしめくチーム内においてもドレクスラーの滞空時間の長いダンクは特に際立っていた。

彼の在籍した間チームはすばらしい成績を収める。1981年にはNCAAファイナル4、1982年FINAL進出、1983年もファイナル4と快進撃を続ける。 しかし優勝には縁遠く1981年はマイケル・ジョーダンを擁するノースカロライナ大学に敗北。優勝候補の筆頭だった1982年にはノースカロライナ州立大学に番狂わせの敗北、1983年には後のニューヨーク・ニックスの名センター、パトリック・ユーイング率いるジョージタウン大学に敗北。 しかしながらヒューストン大にとってドレクスラー、オラジュワンの在籍していた時期はまさに輝ける時代となった。

デビュー当時

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ポートランド・トレイルブレイザーズから1983年全体14番目に指名されNBAに入団(当時はビッグマンの方が上位指名されやすかった。)。1年目はジム・パクソンカルヴィン・ナットラファイエット・リーバーが多く出場していたため、出場時間平均は17分台にとどまり、彼の高いパフォーマンスを披露する機会に恵まれなかった。平均スコアも7.7点に留まり、NBAルーキーチームの一員にも選出されることはなかった。しかし若返りを図ったチームの方針もあり出場機会が十分に与えられた2年目の1984-85年シーズンから次第に存在感を示し始め、シーズン中盤になるとチームは彼を中心とするゲームメイクをするようになる。プレイオフ進出の原動力となり、平均スコアは前年の倍以上(17.2点)に跳ね上がり彼の名前を世間に知らしめることとなる。デビュー2年目の1984年から10年間ドレクスラーは得点ランキング上位の常連となった。

プレイオフ1回戦の壁

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  • ドレクスラーが入団した頃、チームは毎年のようにプレイオフに進出していたが、1984-85シーズンを除いてなかなかプレイオフ1回戦を突破することができなかった。ドレクスラーは1985-86シーズン、1試合平均18.5得点、8.0アシスト、2.63スティールトリプルダブル4回を記録して、オールスターにも選出されたがプレイオフではデンバー・ナゲッツに1勝3敗で敗退した。
  • 1986-87シーズン、彼は当時のスーパースター、ラリー・バードマジック・ジョンソンの2人しか達成していなかった平均21得点(21.7)、6リバウンド以上(6.3)、6アシスト以上(6.9)以上を達成、2人のスーパースターと肩を並べる成績を残す。大学時代のチームメイト、オラジュワンを擁するヒューストン・ロケッツとプレイオフ1回戦で対戦、平均24.0得点をたたき出したがまたも敗退した。
  • 1987-88シーズン、チーム歴代記録の年間2,185得点を達成、NBAプレーヤー・オブ・ザ・ウイークに3度、オールNBA2ndチームにも選出、その年のオールスターゲームでは15分間の出場で12点、5リバウンドを記録した。レギュラーシーズンの平均スコアも前年より5点多い27.00得点を記録。すばらしい成績を残したレギュラーシーズンとは対照的に、プレイオフでは振るわずフィールドゴール成功率は.386と絶不調。ユタ・ジャズに1勝3敗で敗れてまたもや1回戦で姿を消すこととなった。
  • 1988-89シーズンもレギュラーシーズンは前年同様の活躍を見せた。オールスターゲームにも選出され、14得点、12リバウンドを記録。その年のプレイオフはロサンゼルス・レイカーズを相手に前年の汚名をそそぐかのようなプレイを披露、平均27.7得点をたたき出すも、またもや3連敗で敗退し地元のファン・メディアはがっかりした。
  • 4年連続レギュラーシーズン中、素晴らしい成績を残し続けてきたドレクスラーだったが、プレイオフを勝ち上がれなかったためなかなか高い評価を受けることはなかった。

最盛期

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  • 1989-90シーズン、ブレイザーズはベテランパワーフォワードバック・ウィリアムスをトレードで獲得、ドレクスラーにとってウイリアムスの獲得は喜ばしいものであった。シーズン前ドレクスラーは「今年の我々は戦うだけの十分な力がある。必ずそこ(FINAL)へ行けるであろう」と断言している。ドレクスラーは通算10,000得点をマーク、またオールNBA3rdチームにも選出される。ドレクスラーを中心としてチームは危なげなくプレイオフ進出、そして彼の約束どおりNBAファイナルまで勝ち進んだ。
  • ファイナルの相手は2連覇を狙う「バッドボーイズ」と呼ばれたジョー・デュマースアイザイア・トーマスビル・レインビアデニス・ロッドマンらのデトロイト・ピストンズだった。ドレクスラーは本拠地で行われた第2戦で33得点、決勝フリースローを決めるなど活躍したが、1勝4敗で敗れて念願のチャンピオンリングには手が届かなかった。ピストンズは2連覇を達成した。
  • 翌年の1990-91年シーズンからドレクスラーとトリプルダブルは、ほぼ同義語になっていた。この年4度のトリプルダブルを記録する。MVP投票でも6番目の投票を集め、プレイヤーオブザウイークに3度選出された。また5年連続オールスターに選出された。この年もプレイオフに進み、1回戦のシアトル・スーパーソニックス戦でプレイオフ自己最多の39得点、2回戦のユタ・ジャズ戦でも自身プレイオフ3度目のトリプルダブルを達成しウエスタン・カンファレンスファイナルに勝ち進んだがロサンゼルス・レイカーズにファイナル進出を阻まれた。
  • 1991-92シーズン、ドレクスラーは初めてオールNBA 1stチームに選出された。MVP得票においても、マイケル・ジョーダンに次ぐ2位の票を集めた[2]。オールスターで初めてスターティングメンバーとしてプレイ、28分間で、22得点、9リバウンド、6アシスト、2ブロックショットを記録。レギュラーシーズン後半彼は怪我によって数戦欠場したが、プレイオフで戦列復帰。レイカーズとの1回戦オーバータイムでのNBA記録、13得点を記録。ゲーム全体では42得点を記録した。これはブレイザーズのポストシーズン記録となった。チームはNBAファイナルまで勝ち進んだが[3]、ジョーダン擁するシカゴ・ブルズに惜しくも敗れこの年も優勝を逃した。ブルズは2連覇を達成した。
  • この3シーズンがドレクスラーにとって、彼のキャリアの中で最も高いパフォーマンスを見せた。

キャリア末期

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  • 1992-93年シーズン、怪我の影響もあり平均得点が20点を下回った。
  • 1993-94年シーズンは、クリフォード・ロビンソンにチームNo.1スコアラーの座を奪われる。しかしながら7年連続オールスター出場、NBAで47番目となる17,000得点を達成する。
  • 怪我に泣かされたこの1993年1994年の2シーズンは、プレイオフに進出しながらも1993年サンアントニオ・スパーズに、1994年ヒューストン・ロケッツに敗れている。そしてこれが、ブレイザーズでの最後のポストシーズンゲームとなる。
  • 1994-95年シーズン、41試合ブレイザーズでプレイした後、12シーズン過ごしたブレーザーズのほぼ全てのチーム記録を残して、大学時代のチームメイト、アキーム・オラジュワン率いる地元ヒューストン・ロケッツに電撃的に移籍をする。シーズン中盤からロケッツに合流した彼は、オラジュワンに次ぐ20.5平均得点を稼ぎ出しチームに貢献、プレイオフに進出。ウェスタン第6シードにもかかわらず、ユタ・ジャズフェニックス・サンズ[4]サンアントニオ・スパーズを破り、ついにはシャキール・オニール率いるオーランド・マジックを4連勝で破り、ポートランドではかなわなかった念願のNBAチャンピオンリングを手にすることになる[5]
  • 1995-96年シーズン故障から52試合出場にとどまるも、この年ドレクスラーはNBAで24番目となる20,000得点を達成。またNBA 50周年を記念した「50人の偉大な選手」の一人に選出された。
  • 1996-97シーズン、フェニックス・サンズのスーパースター、チャールズ・バークレーがNBAチャンピオンリングを求め優勝を狙えるロケッツに移籍、スーパースター3人を抱えるロケッツは周囲の注目を集めたが、年齢的に最盛期を過ぎた感のあるスター達は往年のパフォーマンスは発揮せず、とうとうバークレーは念願のチャンピオンリングを手にする事はなかった。ドレクスラーはこのシーズン1984-1998年の間で最も低い平均18.00得点に留まる。
  • 翌年、ドレクスラーは1997-98年のシーズンを最後に引退すると表明、引退後は彼の母校ヒューストン大学でヘッドコーチに就任すると発表。その年ドレクスラーはチームで最も高い平均得点を稼ぎ出し、オスカー・ロバートソンジョン・ハブリチェックコービー・ブライアントレブロン・ジェームズの4人しか達成していない20,000得点、6,000リバウンド、6,000アシストを達成、彼の偉大なNBAキャリアを締めくくった。

ダンクコンテスト

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「クライド・ザ・グライド」華麗なダンクでNBAファンを唸らせ、ルーキーの頃からスラムダンクコンテスト出場を果し、NBA屈指のダンカーとなった。1984年1985年1987年1988年1989年の5回の出場はNBA最多。滞空時間が長く、美しいフォームのダンクだが当時のライバル、マイケル・ジョーダンケニー・ウォーカードミニク・ウィルキンズの豪快なダンクを比べると多少インパクトが少なかったのだろうか、1987年はジョーダンと激戦のうえ敗退、1989年は地元でもあるヒューストンで観客の声援を受けながら決勝に進んだが、ケニー・ウォーカーのパワフルなダンクに敗北を喫し、念願であったスラムダンクチャンピオンの称号を手にすることはなかった。しかしNBA史上最も華麗なダンカーの一人である事は多くの人が認めるところである。


個人成績

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略称説明
  GP 出場試合数   GS  先発出場試合数  MPG  平均出場時間
 FG%  フィールドゴール成功率  3P%  スリーポイント成功率  FT%  フリースロー成功率
 RPG  平均リバウンド  APG  平均アシスト  SPG  平均スティール
 BPG  平均ブロック   TO  平均ターンオーバー  PPG  平均得点
 太字  キャリアハイ  *  リーグリーダー  †  優勝シーズン

NBAレギュラーシーズン

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シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG TO PPG
1983–84 ポートランド 82 3 17.2 .451 .250 .728 2.9 1.9 1.3 .4 1.5 7.7
1984–85 ポートランド 80 43 31.9 .494 .216 .759 6.0 5.5 2.2 .9 2.8 17.2
1985–86 ポートランド 75 58 34.3 .475 .200 .769 5.6 8.0 2.6 .6 3.8 18.5
1986–87 ポートランド 82 82 38.0 .502 .234 .760 6.3 6.9 2.5 .9 3.1 21.7
1987–88 ポートランド 81 80 37.8 .506 .212 .811 6.6 5.8 2.5 .6 2.9 27.0
1988–89 ポートランド 78 78 39.3 .496 .260 .799 7.9 5.8 2.7 .7 3.2 27.2
1989–90 ポートランド 73 73 36.8 .494 .283 .774 6.9 5.9 2.0 .7 2.6 23.3
1990–91 ポートランド 82 82 34.8 .482 .319 .794 6.7 6.0 1.8 .7 2.8 21.5
1991–92 ポートランド 76 76 36.2 .470 .337 .794 6.6 6.7 1.8 .9 3.2 25.0
1992–93 ポートランド 49 49 34.1 .429 .233 .839 6.3 5.7 1.9 .8 2.3 19.9
1993–94 ポートランド 68 68 34.3 .428 .324 .777 6.5 4.9 1.4 .5 2.5 19.2
1994–95 ポートランド 41 41 34.8 .428 .363 .835 5.7 5.1 1.8 .5 2.4 22.0
1994–95 ヒューストン 35 34 37.1 .506 .357 .809 7.0 4.4 1.8 .7 2.5 21.4
1995–96 ヒューストン 52 51 38.4 .433 .332 .784 7.2 5.8 2.0 .5 2.6 19.3
1996–97 ヒューストン 62 62 36.6 .442 .355 .750 6.0 5.7 1.9 .6 2.5 18.0
1997–98 ヒューストン 70 70 35.3 .427 .317 .801 4.9 5.5 1.8 .6 2.7 18.4
通算 1,086 950 34.6 .472 .318 .788 6.1 5.6 2.0 .7 2.7 20.4
オールスター 9 4 18.4 .506 .286 1.000 4.9 2.6 1.3 .7 2.0 10.7

プレーオフ

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シーズン チーム GP GS MPG FG% 3P% FT% RPG APG SPG BPG TO PPG
1984 ポートランド 5 17.0 .429 .000 .857 3.4 1.6 1.0 .2 1.4 7.2
1985 ポートランド 9 9 37.7 .410 .286 .844 6.1 9.2 2.6 1.0 3.2 16.7
1986 ポートランド 4 4 36.3 .456 .400 .783 6.3 6.5 1.5 .8 4.8 18.0
1987 ポートランド 4 4 38.3 .456 .250 .793 7.5 3.8 1.8 .8 1.5 24.0
1988 ポートランド 4 4 42.5 .386 .500 .724 7.0 5.3 3.0 .5 3.0 22.0
1989 ポートランド 3 3 42.7 .493 .000 .765 6.7 8.3 2.0 .7 4.0 27.7
1990 ポートランド 21 21 40.6 .441 .220 .774 7.2 7.1 2.5 .9 3.8 21.4
1991 ポートランド 16 16 39.6 .476 .268 .776 8.1 8.1 2.1 1.0 3.2 21.7
1992 ポートランド 21 21 40.3 .466 .235 .807 7.4 7.0 1.5 1.0 2.8 26.3
1993 ポートランド 3 3 38.7 .419 .417 .800 6.3 4.7 1.7 1.0 1.0 19.0
1994 ポートランド 4 4 39.3 .425 .231 .826 10.3 5.5 2.0 .5 2.3 21.0
1995 ヒューストン 22 22 38.6 .481 .303 .786 7.0 5.0 1.5 .7 2.0 20.5
1996 ヒューストン 8 8 36.5 .415 .265 .765 7.8 5.0 2.6 .5 2.5 16.6
1997 ヒューストン 16 16 38.9 .436 .373 .778 5.6 4.8 1.6 .4 2.3 18.1
1998 ヒューストン 5 5 36.4 .309 .192 .757 5.4 4.6 1.6 .6 2.6 15.0
通算 145 140 38.4 .447 .288 .787 6.9 6.1 1.9 .7 2.7 20.4

その他

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  • ドレクスラーは引退間際に有力チームに移籍し、チャンピオンリングを手にした。そのことから同じようなケースの移籍に対し“ドレクスラー・シンドローム”という言葉が生まれた。
  • 息子のアダム・ドレクスラーが、B.LEAGUE岩手ビッグブルズに所属し、父と同じ背番号22を背負っている。その関係でドレクスラーは同チームのアンバサダーを務めている。

所属チーム

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戦歴

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  • 通算試合出場 1,086試合
  • 通算得点 22,195点 (1試合平均 20.4点)
  • 通算リバウンド 6,677回 (1試合平均 6.1回)
  • 通算アシスト 6,125回 (1試合平均 5.6回)
  • トリプルダブル25回

個人タイトル

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脚注

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注釈

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  1. ^ NBA屈指のダンカーであり、グライダーの滑空にもたとえられたスラムダンクはドレクスラーのトレードマークであった。

出典

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  1. ^ Bailey, Andy. “NBA All-Time Player Rankings: Top 10 Shooting Guards” (英語). Bleacher Report. 2021年10月6日閲覧。
  2. ^ 1991–92 NBA MVP Voting”. basketballreference.com. 2022年4月11日閲覧。
  3. ^ 1992 NBA Finals Composite Box Score”. basketballreference.com. 2022年4月11日閲覧。
  4. ^ Monroe, Mike (April 17, 2007). “Downside also apparent in referee's suspension”. San Antonio Express-News. 2007年9月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年7月15日閲覧。
  5. ^ 1995 NBA Finals Composite Box Score”. basketballreference.com. 2022年4月11日閲覧。

外部リンク

[編集]
  • 選手の通算成績と情報 NBANBA日本Basketball-Reference
  • Clyde Drexler at NBA Encyclopedia
  • Clyde Drexler at the Basketball Hall of Fame
  • Maxey, Wendell. "クライド・ドレクスラー". The Oregon Encyclopedia.
  • University of Houston Digital Library photos of Clyde Drexler[リンク切れ]