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クシシュトフ・コスィーンシキー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クシシュトフ・コスィーンシキー
紋章
称号 将軍1591年1593年[1]
身分 貴族
家名 コスィーンシキー家
民族 ウクライナ人
生没 ?‐1593年5月[1]
出生 ポーランドドロホチーン[1]
死亡 ウクライナチェルカースィ[1]
宗教 正教徒カトリック
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クシシュトフ・コスィーンシキーウクライナ語Кри́штоф Коси́нський;?‐1593年5月)は、ウクライナの軍人、登録コサック将軍[1]

概要

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ポーランド・リトアニア共和国ポドラシェ県出身の貴族。父は正教徒ルーシ人、母はカトリック教徒ポーランド人[2]1586年ザポロージャコサックの長老として史料に登場する。1590年の春に、ジグムント3世の命令を受け、ポジーリャ地方へ攻め入ったオスマン帝国軍とクリミア・ハン国軍を破り、その手柄のために知行としてロキトノ荘を賜った[1]。その後、ロキトノ荘を横領したルーシ系公爵ヤーヌシュ・オストロージシキーと争い、1591年に公爵の不法に対しコサックの反乱を起こした。これをコスィーンシキーの乱という。1591年の秋に公爵の所領であったビーラ・ツェールクヴァを陥落させ、公爵の館からロキトノ荘に関するすべての公文書を奪った[1]1592年中に、反乱の拡大にともなってキエフ県の全域とポジーリャ県の一部をコサックの支配下に置いた。1593年2月にオストロージシキーの軍勢に惨敗し、逃走した。1593年チェルカースィを訪れる際、現地の代官オレクサーンドル・ヴィシュネヴェーツィキー公爵の家臣によって殺害された[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h Леп’явко 2008:211.
  2. ^ Herbarz polski. Uzupełnienia i sprostowania do części 1. Boniecki, Adam. — T. 11: Kosiński. — s. 273.

参考文献

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  • (ウクライナ語) Грушевський М. Історія України-Руси. — К., 1995. — т. 7.
  • (ウクライナ語) Леп’явко С. Козацькі війни кінця XVI ст. в Україні. — Чернігів, 1996.
  • (ウクライナ語) Леп’явко С. Криштоф Косинський // Історія України в особах: Литовсько-польська доба. — К., 1997.
  • (ウクライナ語) Леп’явко С. Криштоф Косинський // Енциклопедія історії України. — Київ : Наукова думка, 2008. — Т. 5. — С. 211.

外部リンク

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