クイン・バックナー
引退 | ||||||||||||||||||
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ポジション | PG | |||||||||||||||||
基本情報 | ||||||||||||||||||
国籍 | アメリカ合衆国 | |||||||||||||||||
生年月日 | 1954年8月20日(70歳) | |||||||||||||||||
出身地 | イリノイ州フェニックス | |||||||||||||||||
身長(現役時) | 190cm (6 ft 3 in) | |||||||||||||||||
体重(現役時) | 86kg (190 lb) | |||||||||||||||||
キャリア情報 | ||||||||||||||||||
出身 | インディアナ大学 | |||||||||||||||||
NBAドラフト | 1976年 / 1巡目 / 全体7位[1] | |||||||||||||||||
ミルウォーキー・バックスから指名 | ||||||||||||||||||
選手経歴 | ||||||||||||||||||
1976-1982 1982-1985 1985-1986 |
ミルウォーキー・バックス ボストン・セルティックス インディアナ・ペイサーズ | |||||||||||||||||
指導者経歴 | ||||||||||||||||||
1993-1994 | ダラス・マーベリックス | |||||||||||||||||
受賞歴 | ||||||||||||||||||
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Stats Basketball-Reference.com | ||||||||||||||||||
代表歴 | ||||||||||||||||||
キャップ | アメリカ合衆国 1974, 1976 | |||||||||||||||||
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ウィリアム・クイン・バックナー (William Quinn Buckner, 1954年8月20日 - ) は、アメリカ合衆国の元プロバスケットボール選手、指導者。身長190cm、体重86kg。ポジションはポイントガード。1976年モントリオール五輪金メダリスト。
経歴
[編集]イリノイ州フェニックスで生れたバックナーは、ソーンリッジ高校時代にチームを州選手権2連覇に導き、オールアメリカンに選出された。またフットボールでも州のオールチームに選ばれている。卒業後は名門インディアナ大学に進学し、4年次の1976年にNCAAトーナメント制覇を成し遂げた。同年モントリオール五輪アメリカ代表に選ばれて金メダルを獲得した。大学4年間の成績は平均10.0得点4.5アシストである。
1976年、バックナーはNBAドラフト全体7位でミルウォーキー・バックスに入団した(NFLのワシントン・レッドスキンズからも指名を受けている)。1年目は平均8.6得点2.43スティール(リーグ4位)を記録し、堅実なディフェンダーとしての評価を確立した。2年目の1977-78シーズンはリーグ3位の平均2.29スティールで自身初のオールディフェンシブ2ndチームに選ばれた。
1980年代前半、マーカス・ジョンソンやシドニー・モンクリーフらを擁したバックスはイースト屈指の強豪となった。バックナーは有能なディフェンダーとしてチームを支え、1979-80シーズンから3年連続でオールディフェンシブ2ndチーム入りを果たした。特に1980-81シーズンは自己最高の平均13.3得点をあげ、バックスのシーズン60勝に大きく貢献した。しかしプレーオフでは3年連続でカンファレンス準決勝敗退に終った。
1982年、バックナーはボストン・セルティックスにトレードされた。セルティックスでは主にデニス・ジョンソンらのバックアップとしてプレーした。1983-84シーズン、セルティックスは62勝をあげ、ファイナルでロサンゼルス・レイカーズを破ってリーグ制覇を果たした。バックナーはファイナル全7試合に出場して平均2.0得点を記録した。チームは翌年もファイナルに進出したがレイカーズに敗北した。
1985-86シーズン、インディアナ・ペイサーズにトレードされたバックナーは32試合に出場した後解雇され、現役を引退した。NBAでの成績は、719試合の出場で通算5,929得点3,114アシスト1,337スティール(平均8.2得点4.3アシスト1.86スティール)であった。バックスで記録した通算1,042スティールは球団史上1位の数字である。また、NCAA、NBA、オリンピックの全てで優勝を経験した選手はバックナーを含め8人しかいない。
引退後の1993年、バックナーはダラス・マーベリックスのヘッドコーチに就任したが、厳格かつ独断的な指導を行ったためオーナーや選手と対立し、チームは球団史上ワースト2位となる13勝69敗の戦績に終った。バックナーはシーズン終了後に解任された。その後はテレビの解説者などを務めた。
個人成績
[編集]* | リーグ1位 |
太字 | キャリアハイ |
† | NBAチャンピオン |
レギュラーシーズン
[編集]Season | Team | GP | GS | MPG | FG% | 3P% | FT% | RPG | APG | SPG | BPG | PPG |
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1976–77 | MIL | 79 | – | 26.5 | .434 | – | .539 | 3.3 | 4.7 | 2.4 | .3 | 8.6 |
1977–78 | 82 | – | 25.3 | .468 | – | .645 | 3.0 | 5.6 | 2.3 | .2 | 9.3 | |
1978–79 | 81 | – | 21.7 | .454 | – | .632 | 2.6 | 5.8 | 1.9 | .2 | 7.2 | |
1979–80 | 67 | – | 25.2 | .467 | .400 | .734 | 3.6 | 5.7 | 2.0 | .1 | 10.7 | |
1980–81 | 82 | – | 29.1 | .493 | .167 | .734 | 3.6 | 4.7 | 2.4 | .0 | 13.3 | |
1981–82 | 70 | 70 | 30.8 | .482 | .267 | .655 | 3.6 | 4.7 | 2.5 | .0 | 12.9 | |
1982–83 | BOS | 72 | 56 | 21.7 | .442 | .000 | .632 | 2.6 | 3.8 | 1.5 | .1 | 7.9 |
1983–84† | 79 | 0 | 15.8 | .427 | .000 | .649 | 1.7 | 2.7 | 1.1 | .0 | 4.1 | |
1984–85 | 75 | 6 | 11.4 | .383 | .000 | .640 | 1.2 | 2.0 | .8 | .0 | 2.4 | |
1985–86 | IND | 32 | 3 | 13.1 | .471 | .000 | .704 | 1.6 | 2.7 | 1.3 | .1 | 3.7 |
Career | 719 | 135 | 22.6 | .461 | .184 | .657 | 2.7 | 4.3 | 1.9 | .1 | 8.2 |
プレーオフ
[編集]Year | Team | GP | GS | MPG | FG% | 3P% | FT% | RPG | APG | SPG | BPG | PPG |
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1978 | MIL | 9 | – | 28.6 | .500 | – | .652 | 3.0 | 6.9* | 2.0 | .1 | 11.2 |
1980 | 7 | – | 23.6 | .340 | .000 | .636 | 2.3 | 4.4 | 2.1 | .0 | 6.1 | |
1981 | 7 | – | 26.1 | .433 | – | .688 | 2.9 | 5.0 | 1.6 | .0 | 9.0 | |
1983 | BOS | 7 | – | 14.0 | .432 | .000 | .000 | 1.4 | .3 | .1 | .0 | 4.6 |
1984† | 23 | – | 11.7 | .405 | .000 | .545 | 1.5 | 1.2 | .6 | .0 | 3.3 | |
1985 | 15 | 0 | 5.7 | .591 | – | .625 | .5 | .8 | .4 | .0 | 2.1 | |
Career | 68 | 0 | 15.5 | .439 | .000 | .610 | 1.7 | 2.5 | .9 | .0 | 5.1 |