ギータ・オブ・ウェセックス
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ギータ・オブ・ウェセックス Gytha of Wessex | |
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出生 |
1053年頃 イングランド王国、ウェセックス |
死去 |
1098年3月10日 |
埋葬 | ファーティマ朝、エルサレム |
配偶者 | スモレンスク公ウラジーミル・モノマフ |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ゴドウィン家 |
父親 | イングランド王ハロルド2世 |
母親 | エディス |
ギータ・オブ・ウェセックス(英語: Gytha of Wessex、ロシア語: Гита Уэссекская:ギータ・ウエセックスカヤ 、1053年頃 - 1098年3月10日/1107年)は、アングロ・サクソン系イングランド王ハロルド2世と、その最初の妻で「白鳥の首」の愛称を持つエディス(en)との間の娘であり、後のキエフ大公ウラジーミル・モノマフの妻である。
生涯
[編集]1066年、父のハロルド2世がヘイスティングスの戦いで戦死した後、フランドル伯国[注 1]へと逃亡した。サクソ・グラマティクスの記述には、その後に何人かの兄弟姉妹と共に、おじのデンマーク王スヴェン2世(Svend2世[注 2])の元へと移住したとある。
1074年にルーシの公ウラジーミル・モノマフと結婚し、モノマフとの間に数名の子を生んだ。そのうちの1人のムスチスラフは、西欧の史料によれば、祖父に倣った「ハロルド」の名を有していたという[1]。
A.ナザレンコ(ru)は、ギータはケルンの修道院の1つと関係を持つ人物であり、ゴドフロワ・ド・ブイヨンと共に第1回十字軍に参加、その最中に死亡しエルサレムに埋葬されたと推測している。また、その1年後にウラジーミル・モノマフが別の女性と結婚していることから、没年は1098年の可能性が最も高いと推測している。
別の説では、ギータは1107年にスモレンスクで死亡したという[1]。
子女
[編集]夫はウラジーミル・モノマフ。子には以下の人物がいる。
- ムスチスラフ - キエフ大公。
- イジャスラフ - クルスク公、ムーロム公。
- スヴャトスラフ - スモレンスク公、ペレヤスラヴリ公。
- ロマン - ヴォルィーニ公
- ヤロポルク - キエフ大公。
- ヴャチェスラフ - スモレンスク公、トゥーロフ公、ペレヤスラヴリ公、キエフ大公。
- マリヤ(マリナ) - レオーン・ディオゲネス(Λέων Διογένης[注 3]、Leōn Diogenes、東ローマ皇帝ロマノス4世ディオゲネスの子)と結婚。
- エヴドクシヤ
- エヴフィミヤ - ハンガリー王カールマーンと結婚。
- アガフィヤ
- グレプ - ペレヤスラヴリ公(ただし実在の人物ではないとする説もある)。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 「フランドル伯国」はロシア語: Графство Фландрияの直訳による。詳しくはru:Фландрия (графство)参照。
- ^ 「Svend」はデンマーク語表記による。詳しくはru:Свен II Эстридсен参照。ハロルド2世の母ギータとスヴェン2世の父ウルフ伯が兄妹の関係。
- ^ 「Λέων Διογένης」はギリシャ語表記による。詳しくはru:Лев Диоген参照。
出典
[編集]参考文献
[編集]- Назаренко А. В. Древняя Русь на международных путях. — М., 2001.
- Пашуто В. Т. Внешняя политика Древней Руси. — М.: Наука, 1968.